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2012.10.03
[イベントレポート]
2012年9月29日、第25回TIFFプレイベント上映会にて『一枚のハガキ』の上映と新藤次郎プロデューサーによるトークショーを行いました!

東京国際映画祭のメイン会場である港区で、本映画祭が開催されることを機にスタートした港区・東京国際映画祭共催企画「東京国際映画祭プレイベント上映会」。
本年も、9月29日(土)・30日(日)の2日間開催され、29日には、2012年5月に他界された新藤兼人監督追悼上映として、第23回TIFF コンペティション部門審査員特別賞を受賞した『一枚のハガキ』の上映と、終了後には新藤次郎さんが登壇、トークショーが行われました。
そのトークショーの模様をレポートします。
 
 
第25回東京国際映画祭プレイベント
新藤兼人監督『一枚のハガキ』追悼上映
新藤次郎(プロデューサー)× 矢田部吉彦(TIFFプログラミング・ディレクター)トークショー
 
スクリーンに松葉杖姿の大杉漣が現れると場内は笑いに包まれ、終映後も温かい余韻に包まれた――。
2012年9月29日、映画祭のプレイベントが都内で開かれ、’12年5月に100歳で天寿を全うした新藤兼人監督の遺作『一枚のハガキ』が追悼上映された。上映後には次男で近代映画協会の代表である新藤次郎氏と矢田部PDが登壇し、新藤監督のこと、また第23回TIFF(2010年)で審査員特別賞に輝いた本作の思い出を語り合った。
 
 
自分が体験した戦争のことを描きたいと望んだ、最後の作品
 
矢田部:新藤さんは1980年代半ばからプロデューサーとして活躍し、新藤兼人監督作品をはじめ、矢口史靖監督や竹中直人監督の作品を手がけておられます。新藤監督が亡くなって4か月になりますが、今はどんな心境でいらっしゃいますか?
 
新藤次郎プロデューサー(以下、新藤):新藤兼人は2012年5月29日に亡くなったため、今日が月命日になります。午前中に墓参りに行きましたが、毎日が慌ただしく、まだ気持ちの整理がつかない状態です。
 
矢田部:監督は「これが最後の作品だ」と明言した上で『一枚のハガキ』の撮影に臨みましたが、どんな経緯で本作の製作を決断されたのでしょう?
 
新藤:前作『石内尋常高等小学校 花は散れども』の公開後、「生きている限り生き抜きたい」と文章に書いていましたが、前作の撮影を車椅子で終えたときに本人は「まだ行ける」と思ったようです。それでもう1本作ろうとなって、ふたりで話して選んだのが『一枚のハガキ』でした。最後の作品になることは自覚していて、自身が体験した戦争のことを描いておきたいと言ってました。それは映画作家として生涯やってきたことでもあります。ドキュメンタリー風に撮るのではなく、劇としてしっかり作りたいというのが本人の希望でした。
シナリオの第1稿を読んだとき、笑い話となるような戦争中の体験が盛り込まれ、なおかつメッセージ性と社会性があるのを感じました。70年以上に渡る映画人生の掉尾を飾るのに、ふさわしい作品だと思いました。
 
矢田部:監督から最後の作品を作りたいと言われたとき、次郎さんはどんなお気持ちでしたか?
 
新藤:車椅子で片目が失明している状態でしたから、大変だろうな、と。『花は散れども』のときもそうでしたが、もしかしたら未完になるかもしれないと覚悟したうえで撮影に入ります。スタッフ全員が完成を願っていましたが、そのためには十分すぎるほど監督のケアをしなければならない。作品を完成させるのに必要なあらゆる手立てを講じましたが、製作中は不安で一杯でした。
昨今のインディペンデント映画はなかなか収益が出せない、原価回収さえできないことが多くて、『花は散れども』もそうだったために資金調達が難しくなり、予定よりも25パーセント減で予算を組みました。でも内容を変えることはできないので、そのぶん撮影期間を切り詰めることにした。具体的には60日で撮るところを45日に切り詰めた。98歳ですから相当きつかったと思います。撮影中も撮了後も、公開してからもずっと、「オレは次郎に45日で撮らされた」と恨み節を聞かされました(笑)。たしかに、体力は消耗していて大変でした。
 
矢田部:それでも45日で撮ったのですよね?
 
新藤:はい(笑)。ラスト・カットは伊豆半島の沼津の先で撮りました。午前中に作業を終え、撤収前に弁当を食べたのですが、監督だけはいつもと違いましたね。生涯のラスト・カットを撮ったという思いがあったのか、しばらく遠くを見つめていました。
新藤次郎さん

©2012 TIFF

 
矢田部:幸いにも作品を完成させることができて、どんな実感が湧きましたか?
 
新藤:プロデューサーとして手応えを感じていたし、内容も気に入っていました。慣れ親しんだ俳優と監督の確固とした意思疎通があって、スタッフの本番への集中力も見事でしたから自信はありました。
 
 
映画祭という檜舞台に参加してもらいたかった
 
矢田部:2010年の秋になり、第23回東京国際映画祭の作品選定を終わらせる段階で新藤組の新作が完成間近だと聞きつけ、思い切って次郎さんにお尋ねしたところ、快くコンペ出品を引き受けて下さいました。監督も「最後は東京国際映画祭で上映するんだ」と言って下さったと聞いて、感激しました。
 
新藤:撮影が6月末に終わり、編集中の8月に話をもらったときには、まだ完成していませんでした。東京国際映画祭は10月ですが新藤組は夏に撮影してることが多くて完成していないか、完成したとしても、公開を1年後に組んでいるから商売にすぐには結びつかない。でも、大変熱心に誘っていただいて光栄でした。
映画祭というのは出品したいときにはうまく行かず、そうでないときにお誘いを受けるという皮肉な一面もありますが、ミキシング前のオールラッシュを見てもらい、そこでも是非と言ってくれたので音を仕上げて出品しました。海外の映画祭に行くのは高齢ですから無理でしたが、映画祭という檜舞台には参加させたいと思っていて、それなら東京国際映画祭がベストだと思っていました。本人も同じことを感じていて賛成してくれました。
 
矢田部:大竹しのぶさんが映画祭で舞台挨拶をしたとき、現場で抑えた演技を披露したところ、新藤監督から「もっと大きく。もっと派手に」と煽られたと仰っていました。監督の演出や現場の雰囲気はどんなものだったのでしょう?
 
新藤:この映画の大竹さんの芝居は好き嫌いがわかれると思いますが、たしかに監督の注文がたくさんあって、それに応えるなかであの演技が生まれました。大竹しのぶという女優を僕らは密かに「バケモノ」と呼んでいて、「本番!」の声がかかったときの集中力と、監督の注文を即座に演技に反射できる能力は他の俳優では見られないものです。頭で理解して演技するという作業をやっているはずなのに、まるで何も考えていないように監督の注文に反応してくるのだから凄い。
スタッフはここ何作か一緒にやっていて、監督の体調が悪いのはよくわかっていました。だから朝現場に来ると、みんなが監督の顔を注視するんです(笑)。遠くにいる人も近くの人も、俳優さんも、僕も含めて、機嫌の良さそうな顔をしていれば穏やかに撮影をスタートさせることができました。
 
矢田部:家庭人、父親としての新藤兼人はどんな人物だったのでしょう?
 
新藤:父親という意識はあまりなかったと思います。私が大学生の頃までずっとそうでしたけど、基本的に家にいないんです。1年のうち通算で1か月いるかいないか。だからオヤジが家に帰ってくると、お袋はいつもは作らない料理を作るというしだいで家のテンションが上がる。お祭りみたいなものですね(笑)。ふだん、父親と息子という感覚はあまりなくて、直接小遣いをもらったのも一度だけです。
正月に帰ってきて、私と同級生の友だちを本屋に連れて行くと、いつもお年玉がわりに本を買ってくれました。いつだったか、その帰り道に500円だったか、お小遣いをくれたんです。私にとっては驚きでしたね(笑)。そんなこともあって大学在学中に新藤組の現場に参加するまで、会話というのはほとんどありませんでした。
 
矢田部:ふだんから脚本の題材を探していたのか、資金集めに奔走されていたのでしょうか?
 
新藤:何をやっていたのかさっぱりわかりません(笑)。ただシナリオを書く量が凄かったから、集中するために書いている間は旅館に籠もっていました。1年中シナリオの想を練って書いていたから、必然的に宿に籠もっている期間が長かった。
 
矢田部:現場に入って会話が生まれたのは、監督とプロデューサーという関係になってからですか?
 
新藤:最初は助手の助手で入って、現場が楽しくて仕方なかった。新藤兼人のもうひとつの特徴として雑談の名手なんです。だから『一枚のハガキ』に出て来るような実体験のエピソード、また野球のことや松竹時代のこと、他の映画のこととか、いろいろなことが話に出てくる。僕もスタッフになってはじめてそんな一面を知りました。でも一言付け加えるなら、それまで会話がなくても決して父を嫌っていた訳ではありません。
映画監督だというのは知っていたし、スタッフや俳優が30人近く家に集まって正月を祝うという環境で育ったので、父が何をしているかは理解していました。集まってくるスタッフの話から、自ずと父は私にとって尊敬の対象でした。父親というよりは映画監督としてかもしれませんが、誇りであったのは確かです。
 
 
映画は、「生きている限り生き抜きたい」監督の人生そのもの
 
矢田部:プロデューサーとして新藤監督に8作品つかれましたが、監督とはどのように関わったのでしょう?
 
新藤:新藤兼人はもともと脚本家ですから、ほとんどプロデューサーから受注を受けるかたちになる。そうするとホンを渡して文句を言ってくるのは、大抵プロデューサーです。要するにプロデューサーは対立相手です。「俺のホンがわからないなら言っても仕方ない」というのを、往年の癖として持っている。プロデューサーとしては本人のそういう癖がよくわかっていましたから、ある時こう宣言しました。「私はプロデューサーであると同時に身内だ。血が繋がっている。だからどんなに対立しても、最後には監督の側に立つ」と。そうやって裏切らないことを言い聞かせました。それからというもの関係がうまく行くようになりました。
 
矢田部:監督は80歳を越えたあたりから、深刻なテーマを扱う場合でも、ユーモアを湛えた若々しい作風になっていきます。ただ劇的に再現するだけじゃなくて、そこにモダンな美意識を取り入れようとされてましたね?
 
新藤:自分の中にあるイメージを映画にするためです。映画というのは完成してしまえば注釈も付けられない。あとは観客のものです。描かれた時代を体験した方々は、自身の体験に照らし合わせていろんな感慨を持つと思いますが、それも覚悟のうえで撮っていました。
 
矢田部:監督は100歳まで現役を貫きましたが、映画祭の会見で記者から「もう1本撮って下さい」と言われ、「頑張ろうかなあ」と発言されていたのが印象的でした。本音はどうだったのでしょう?
 
新藤:言葉のとおりだったと思いますよ。体調が良ければ、まだ撮りたかった。それこそ、「生きている限り生き抜きたい」という言葉の実践でもあるし、新藤兼人にとって映画は人生そのものですから、映画作りをやめたくないというのは本心だったと思います。悲しいかな貧乏な独立プロで、資金繰りが思うようにいかない現実があった。誰かがオカネを出してくれるなら撮りたいというのを、あそこで口にしたんだと思います。
 
矢田部:親族が最後に聞いた監督の言葉が寝言だったとはいえ、撮影中に発する一声だったそうですね。
 
新藤:最期の6年間は、娘の風(映画監督の新藤風)が一緒に住んで介護してくれました。娘には感謝の気持ちで一杯です。100歳の誕生会を12年4月22日に開きましたが、古い新藤組も新しい新藤組も集まって200人以上が駆けつけてくれました。そのときに「生身の100歳に、見て触って帰って下さい」と挨拶しましたがそれは本気で言ったことです。正直に言えば体力が衰えてきて、誕生会に出席するのもきついかなと思っていました。そうしたら本人が帰り際に、「これで最後です。さようなら」と言った。
本人も自覚していたんだと思いますが、その後さらに体力が弱ってきました。元々無理してるのかなというときがあって、風が「今寝てたね」と言うと、「寝てない。妄想してたんだ」と言い返すことがありました。でも誕生会が終わってからは、さすがに寝ていることが多くなりました。それでも寝言を聞いたり、後で夢見ていたときのことを聞くと全部映画のことなんです。
亡くなる一週間ほど前からいろんなことが寝言になって出てきました。そのときは英語のセリフを演出していたのか、「あとで日本語も撮るから」というのを風が聞きました(笑)。本人は妄想するのがすごく楽しいんです。妄想というと無駄なことのようだけど、とにかくいつも映画のことを考えていた。映画がすべてだったんです。
新藤次郎さん

©2012 TIFF

 
矢田部:生涯現役であり続けた原動力は一体何だったのでしょう?
 
新藤:新藤は日本の映画監督の系譜のなかでとても異質だったと思います。戦後、近代映画協会を吉村公三郎監督と設立して、それから監督する映画はぜんぶ自分のやりたい企画を通した。必ずしも観客の観たいものではない訳ですが、それをずっと60年間続けてきた。
どの監督でも1作2作は意に染まないものを撮った経験があるはずですが、新藤にはそれがなかった。そんな監督はこれまでいなかったし、これからも出てこないだろうと思います。60年以上作ってきたほとんどの作品を実質、自分でプロデュースした。監督料を貰って演出した作品は10本にも満たない。自分の作った作品が見てもらえるのは大変嬉しいことだしダイナミックなことですよね。それが原動力だったのではないでしょうか。ほんとに映画が好きだった。だから、できたんだと思います。
 
2012年9月29日(土) 赤坂区民センターホール

KEIRIN.JP本映画祭は、競輪の補助を受けて開催します。TIFF History
第24回 東京国際映画祭(2011年度)