第25回TIFF コンペティション国際審査委員長が、ロジャー・コーマン氏に決定しました!!
==ロジャー・コーマン氏からのメッセージ==
将来を担うであろう優れたフィルムメーカーのささやかな誕生に立ち会うと、明らかな兆候が感じ取れます。そういった若手の映画製作者には、一種の知性と独創性、そして不断の努力が見られます。彼らの成功を見守り、援助するのは爽快なことです。最後に東京を訪れた時、(私の中で)アジアの映画界の全景が明らかになり、また、多くの将来性のある監督の存在に気づかされました。この度、東京国際映画祭の審査委員長として東京を訪れ、新しい才能を見出す興奮を再び体験することのできる幸運に恵まれました。今年は、これまでと同様に、新たなストーリーテラーたちに感銘を受け、刺激されることでしょう。
コーマン氏は、60年近くのキャリアの中で550以上の作品を製作し、50以上の作品を監督。2009年「映画と映画人への多大なる貢献」を認められ、映画芸術科学アカデミーからアカデミー名誉賞を授与されたハリウッドでもっとも才能に溢れた影響力のある映画製作者の一人です。また、若手を積極的に起用し、彼の下からはフランシス・フォード・コッポラ、マーティン・スコセッシ、ジェームズ・キャメロンといった数多くの映画監督や、ジャック・ニコルソンら有名俳優が輩出されました。世界にも広く目を向けアカデミー賞受賞作を含むイングマール・ベルイマン、フランソワ・トリュフォー、フェデリコ・フェリーニらの名作を米国配給したことでも有名。黒澤明監督とは『デルス・ウザーラ』の米国公開を手掛けたことから親交が深かったといいます。
TIFFにも大変ゆかりが深い映画人の一人で、第7回TIFF(1994)・京都大会でヤングシネマ・コンペティションの審査委員長を務め、当時長編2作目のガリン・ヌグロホ監督『天使への手紙』にゴールド賞を授与しました。第24回TIFF(2011)ではコーマン氏のドキュメンタリー『コーマン帝国』が特別招待として出品されました。
第25回という節目の今年、コンペティション審査委員長として東京の地に戻ってきます。
1926年デトロイト生まれ。1953年、初めての脚本が映画製作会社アライド・アーティストに買い取られ、映画化。“Highway Dragnet”(54)という、この作品でコーマンは製作補を務めた。その収入で、翌年、『海底からの怪物』(54)を自ら製作。自主映画製作者として彼が初めて手がけたこの作品は、18,000ドルという驚くべき低予算で製作された。
その後、映画会社アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(以下AIP社)で低予算の作品を次々と手がけ、それらはすべて大成功を収めた。この一連の大ヒットでコーマンは名声を高め、製作費も増えていった。
60年代を通して作られた、ヴィンセント・プライス主演、エドガー・アラン・ポー原作のホラー映画シリーズは、海外でも称賛を受ける。
常に流行を生みだすコーマンは、初の“暴走族”映画『ワイルド・エンジェル』(66)を手がける。ピーター・フォンダとナンシー・シナトラ主演のこの作品は、1966年のヴェネツィア国際映画祭で上映され絶賛された。60年代後半にはサイケデリック映画のブームを生み出し、1967年にはジャック・ニコルソン脚本・主演の『白昼の幻想』(67)を手がけた。AIP社でのコーマンの成功は、同社がハリウッドで一大勢力を築く基礎となった。
70年代、コーマンは自身の製作・配給会社ニューワールド・ピクチャーズを設立。ニューワールドは、アメリカ最大のインディペンデント映画配給会社へと急速に成長した。ハイテンポな娯楽映画や、カルト映画を配給したほか、世界の名作映画の米国配給を手がける代表格となった。公開作品には、アカデミー賞受賞作を含むイングマール・ベルイマン、フランソワ・トリュフォー、フェデリコ・フェリーニ、黒澤明、ヴェルナー・ヘルツォークらの監督作品もある。
1983年、コーマンはニューワールド・ピクチャーズの売却を決め、作品の予算を増やすため、新会社コンコード・ニューホライズンの設立。コンコードが製作した作品には、ミミ・ロジャース、ビリー・ゼイン主演の『処刑監獄<未>』(94)、ポール・W・S・アンダーソン監督の『ショッピング』(93)など、批評家に高く評価された作品もあった。コーマンの自伝「私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか」は日本でも早川書房より出版されている。2009年、コーマンは“映画と映画人への多大なる貢献”を認められ、映画芸術科学アカデミーからアカデミー名誉賞を授与された。