映画祭のオープニング・ナイトに上映された『テセウスの船』。本編終了後の夜11時よりアーナンド・ガーンディー監督と女優のアイーダ・エル・カーシフさんが登壇し、質疑応答がスタート。終電間際にもかかわらず、熱心な観客が2人の言葉に耳を傾けていた。
素敵な魅力に満ちた作品を東京のコンペティションに持ってきて下さり、ありがとうございます。まず会場の皆さまに一言いただけますか?
アーナンド・ガーンディー監督(以下、ガーンディー):アリガト。こんなに遅い時間までQ&Aに残って頂いて、とても嬉しく思います。私は日本という国、東京という街に何年も前からインスパイアされていて、ほんとに素晴らしい文化だと思っています。今回、日本の皆さんに私の作品を観てもらえる機会ができて大変光栄です。観て下さって有り難うございます。
アイーダ・エル・カーシフ(以下、エル・カーシフ):皆さん、上映後に残って下さって有り難うございます。お会いできて嬉しいです。日本の皆さんは優しくて感謝の気持ちでいっぱいです。東京に来たのは初めてでワクワクしています。エジプト出身の私にとって日本は大変遠い国ですから、映画祭での上映がなければ永遠に訪れる機会はなかったと思います。本当にありがとうございます。
物語がとても面白い作品ですね。一体どこから着想を得たのでしょうか?
ガーンディー:「物語」という言葉を聞いて驚いてしまったのですが、私の日本文化に対する共感は、『雨月物語』とか『東京物語』といった映画を元にしています。だから、この言葉にすごく反応してしまいました(笑)。ストーリーについてはいろんな要素がありますが、最終的には哲学に起因していると思います。主要なテーマとしてはアイデンティティーの問題を据えています。自分とは何者であり、何で出来ているのか、環境とは何から生み出されるのか。自分はどこから始まり、どこで終わっていくのか。こうしたことをいつも考えています。人間の身体の細胞は7年周期で置き換えられていて、細胞は変わってしまってもなお自分であり続けている。そうしたパラダイムにとても興味があります。また暴力の境界についても考えていて、自分が誰であり、誰に対して暴力的になっているのか、その境界線についても興味があります。さらに、アーティストが自分の作品を客観的に検証する仕組みはあるのかにも関心を持っています。私たちはいま大変複雑な世界に生きていますが、道徳的に見て明白に白黒が分けられるのか。最後のストーリーで、延命のため腎臓を買わなければならない究極の選択をする人物が登場します。一方で、貧乏でどうしてもお金が必要な人物がいる。両者が存在する中で果たしてモラルは成立するのか。こうした哲学的な疑問が発端にありました。タイトルはギリシャ哲学の喩え話に由来しています。テセウスが船を作りますが、少しずつ改修した末、最後には当初の部品がひとつも残っていない事態になる。それでも同じ船と言えるだろうかというものです。これは有機的な生物、私たちの身体についても言えることです。細胞が入れ替わってしまうのに、同じ人間と言えるだろうか。身体内部が変わっていく中で、常に同じアイデンティティーを保ち続けられるのか。そのうえで、自由に対する責任、世界に対する自由とはどんな意味を持つのかといったことに興味を持っています。
直線的な建物によって出演者たちを切り取るカットが美しいと思ったのですが、映像についてどんなこだわりがありますか?
ガーンディー:撮影監督のバンカジ・クマールは最初の着想段階から作品に深く関与していて、キャラクターが持つ考え方を映像で如何に表現するのか、そして、キャラクターが置かれた状況をビジュアル面で如何に解決するのかを共に考えてきました。特にキャラクターをどう配置し、彼らの抱えているジレンマをどう映像にするのかを考えていて、もちろん建物も重要な要素のひとつです。それと共に、季節を如何に活用するのかも考えていて、ムンバイはほぼ1年中暑いのですが、2週間だけ涼しい時期があって、最初の写真家のパートはその時を選んで撮影しました。環境的に、狭いスペースでも居心地のいい感じを出すようにしたのです。僧侶のパートでは、雨期のベタベタした空気感を出すことで複雑な感情の絡みを出そうとしました。最後のパートでは、夏場の暑さの厳しい時期に撮影して、登場人物の感情を露わにしようとしました。
民族音楽みたいな音楽の使い方が印象的でしたが、どんな意図があったのですか?
ガーンディー:僧侶が歌う祈祷歌にはインド音楽の特徴が表れていますが、それ以外には特に民族音楽的なものは使用していません。音楽を担当してくれた英国人のベネディクト・テイラーはとても賢いアプローチをしてくれて、ヴァイオリンやチェロといった一般的な楽器を使用して、特定の文化を想起させないように配慮してくれました。それはこの映画の投げかけている問題に普遍性があり、インド人特有の問題とか、ある人種特有の出来事を描いている訳ではないからです。世界中の誰でも感じられる疑問を描いていて、そのことを正確に伝えようとしました。
アイーダさんは盲目の写真家を演じるにあたって大変ご苦労されたと思いますが、どんなふうに役にアプローチされたのでしょう?
エル・カーシフ:最初はこんな役ってあるのと思いましたが、監督からほんとにそういう写真家がいると聞いて、自分でもリサーチしました。実際に作品を見たり、視覚障害のある人の学校に行って研究しました。人それぞれ体の動かし方が違うのがわかって、とても勉強になりました。そうして役を作っていきました。
2つ目の物語に登場する僧侶がエピローグでは僧衣を着ていません。僧侶を辞めたという理解で宜しいでしょうか?
ガーンディー:その通りです。彼のキャラクターにとってそれはとても大事なことで、自分が信じていたものを最後には手放さなければならなかったのです。