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2012.10.24
[イベントレポート]
「フィクションとしての強度を持たない限り現実には勝てない」――10/21(日)日本映画・ある視点『あれから』:Q&A

10/21(日)日本映画・ある視点『あれから』の上映後、篠崎誠さん(監督)竹厚綾さん(女優)が登壇し、Q&Aが行われました。
あれから

©2012 TIFF

 
司会:観客と一緒に上映をご覧になりましたが如何でしたか?
 
竹厚:なかなか冷静には見られませんでしたね。思い入れがあるので感慨深かったです。
 
司会:この作品には3.11以降の感情がテーマになっていますね。こういったテーマで映画を撮ろうと思った理由をお聞かせいただけますか?
 
篠崎:これは東京渋谷にある映画美学校の作品です。2年生になると、プロの監督と一緒に映画を撮る授業があって、そのなかで完成した作品です。条件は予算を守ること。6日で撮ること。この2つを守れば内容は何でもいい。プロデューサーの松田広子さんが協力することだけが決まっていました。最初は学生に企画を投げたのですが、10代から20代の若い人たちが多く、自由にとお題を出してもなかなか難しい。そこで自分が体験したことではなく、周囲や現実に起こった出来事をもとに、プロットなり物語の概略を書いてほしい。新聞やインターネットで知った出来事でも構わないと伝えました。十数人の生徒が書いてきて、なかには面白いものもありましたが、6日間で撮るという点ではどれも厳しいものばかりでした。そこで今度は自分に当てはめて考えてみたら、3.11が大きなものとしてあることに気付いた。主人公は僕と脚本担当だった酒井善三君で考え、靴屋という設定は岩崎君が思い付き、役者さんが肉付けしてくれたわけですが、ある部分は僕の友人の体験を基にしています。
地震の直後、精神的に不安定になり連絡の取れない状態にあったのですが1か月半ほど経って見知らぬ女性から、当人は入院しているというメールが来ました。この女性が彼と結婚する女性です。大学時代から十数年間付き合ってきた友人で、東京を離れて東北で暮らしていましたが、結婚の話を聞いた矢先に震災に遭った。その後、実際に結婚することになったわけで、この1年間、これほど僕の心を揺さぶる出来事はありませんでした。実話でもドキュメンタリーでもありませんが、これを作ることによって当人たちが傷つくことになったらまずいので、事前に企画の話をしたところ幸いにも快諾してくれて、作ることが出来ました。だから3.11が大きなものとしてあったのは確かですが、非常に個人的なところからこの話は始まっています。
あれから

©2012 TIFF

 
Q:監督はナンセンス物から今回のような感動ものまで多様な作品を作っています。なぜ、これだけ幅広い手掛けることができるのでしょうか?
 
篠原:商業映画の場合は先方からのオファーがあって成り立つことですよね。前に撮った映画の反動と言うか、前はこうだから次はじゃあという感じでやっているだけで、意図してバラエティ豊かにということではありません。たしかに支離滅裂なフルモグラフィーですが、その都度、自分の中でやりたいことをやっているので、嘘はありません。
 
Q:基本的に外の場面は風景が映るだけでしたが、狙いがあってそうしたのですか?
 
篠崎:6日で撮らないといけないという制約からです。生徒を連れて野外ロケに行けば、徹夜になって帰れないことは目に見えている。現実的には1セットに複数の人物を設定して撮るか、少ない人数で場所も大きく変わらないところで撮るか、その2つしかない。無理なく終電で帰れる範囲内となると、上映時間は50分くらいだと思いました。そういう現実的な枠組みのなかでの選択です。
 
Q:監督の作品にはクレジットにしばしば「配役」という言葉を使っています。何かこだわりがあるのですか?
 
篠崎:配役という響きが好きです。昔の日本映画のように、役名と役者名が並んで出てくるのもいいと思っています。最近の映画を観ていて、役者がいいと思っても、役名の表記がないのでどの俳優かわからない。両者が一致したほうがいいというのがあります。アメリカ映画ではよく登場順に並べますが、それを日本でやると「配役」になるのかなと。それでせっかくだから、縦書きにしようと。自分で脚本を書いた作品はすべて縦書きにしています。
 
Q:ディゾルブ、フェイド・イン、フェイド・アウトといった技法を監督はふだん使いませんが、今回の作品では3回使用されています。なぜ使用しようと思ったのでしょう?
 
篠崎:1980年代半ばにジム・ジャームッシュが登場して以来、学生映画でカットとカットの間に黒味を入れるのが凄く流行って、学生には「黒味禁止」と言ってます(笑)。今回の映画は、感覚としか言いようがないですね。最終的に編集段階で芝居のリズムやカメラマンの調子を見て、やってみようと思いました。編集をやった宮崎君や脚本の酒井君にも相談したら、「いいんじゃないですか」と。ただし、フェイド・アウトしてもフェイド・インしないとかルールを決めました。
 
Q:映画の設定年代から考えるとスマートフォンが流行している時ですが、作品にスマートフォンは登場しません。何か映画的な配慮のようなものがあったのですか?
 
篠崎:携帯電話が登場してから、映画からある種の緊張感がなくなった。たとえば、すれ違いとか出会えない場合、電話すればよくなってしまった。その意味で、個人的には携帯電話は映画の敵だと思っています。アメリカ映画を観ていると、すぐ電源が切れたり圏外になったりで、やっぱりちゃんと携帯電話を活用している映画は稀です。その点、村松正浩さんという若い監督が撮った『シンク』は面白かった。この映画では製作担当の岩崎君がNTTに交渉してくれて、借りた機種がこれというのもありました。皆さんの方がこれから、i-phoneの正しい映画の使い方などくれたらと思います。
 
司会:学生と一緒に作った作品とのことですが、リハーサルは何日くらいされたのでしょう?
 
篠崎:リハーサルをやったのは3日間です。僕はあまり本読みをやらないのですが、今回は酒井君が書いてくれた脚本で、自分なら書かないようなセリフがあった。体言止めや言いにくいと思って自分なら書かない言葉が。でもそう感じるのは自分だけかもしれないので探る時間が欲しかった。過去とも夢とも区別がつかない場面を竹厚さんと磯部泰宏君の2人で演じてもらったとき、何かが動いた感じがしましたね。
 
司会:監督からダメ出しはあったんですか?
 
竹厚:一切なかったです。私と磯部君が感じたことをもっと演技に出していいんだと仰ってくれました。私はリハーサルで出し切っちゃうタイプで、本番では気が抜けてしまうこともあるので、リハーサルを重ねることに不安がありました。本番の時になぞろうとしてしまうので、出し切らないようにしていたのですが、一度その枠をはずして踏み込んだ演技をしたら、脚本に書かれていることと違う展開になってしまったのですが、よかったと言ってくれました。
あれから

©2012 TIFF

 
篠崎:美学校に簡易スタジオがあって床にテープを貼って、立ち稽古をやりました。その時は学生にどんなふうに撮りたいのか問いかけ、自由に撮ってもらいました。その後、美術が飾りつけしているところに乗り込んで、実際の稽古をした。たしかにリハーサルをするとなぞってしまう部分はありますが、それはそれ。当日の風が吹きますからね。
ホンではずっと向かい合って罵り合い、磯部君が壁を殴り始めるという展開でしたが、立ち稽古のときに「竹厚さんを見てると抱きしめたくなっちゃうんですよね」と磯部君が言うのでやってごらんと。ほんとにそういう気持ちになるなら、一度動いてごらんと話しました。展開が変わったらまた考えればいいからと。すごくよかったです。立ち上がるタイミングは決めましたが嘘がないようにして、動きにも制約を設けなかった。カメラの山田達也さんがとてもいい仕事をしてくれました。
 
Q:こんなに凄い作品を観てしまって今夜は眠れないかもしれません。現実にフィクションを取り込むとき、どんなことを注意しますか? 恋人同士が立ち上がって涙を流し、倒れる場面では本当に圧倒されてしまったのですが、プロット段階でこんなに大きな問題を扱ったら、あざとくなるのではと不安を感じませんでしたか?
 
篠崎:正直ドキドキしながらやっています。僕自身や家族に地震で親族を亡くした人はいないし、現実にもっとすごい体験をしている方もいると思います。だから、触れられたくない部分に触れてしまうのではないかという危惧が実は今もあります。なぜフィクションなのかと考えた時に、3.11の後、テレビは津波の映像ばかり繰り返し流していて、見ているとブラウン管のなかにしか世界はないように思えて、不快な気分になった。映画がいいのはフレームの外を想像させることが出来るからで、そのことも含めて、フィクションとしての強度を持たない限り現実には勝てないと思います。立ち上がった後に殴られて倒れる場面も脚本にはなかった。俳優陣がいなかったときに助監督に役者を務めてもらって、いろんな動きを試していくうちにできていった。いつも五里霧中で「これでいいのか」というのと、「天才バカボン」のパパみたいに「これでいいのだ」という2つのせめぎ合いです。最終的に助けてくれるのはスタッフであり、キャストです。
 
あれから

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