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2012.12.07
[イベントレポート]
12/8(土)公開! 10/24(水)日本橋で日本映画を観よう『二つの祖国で・日系陸軍情報部』:Q&A

10/24(火)日本橋で日本映画を観よう『二つの祖国で・日系陸軍情報部』の上映後、すずきじゅんいちさん(監督/脚本)、ハーバート・ヤナムラさん(元MIS兵士)が登壇、Q&Aが行われました。
二つの祖国で・日系陸軍情報部

©2012 TIFF

 
司会:第二次大戦中「人間秘密兵器」といわれたMISの兵士だったヤナムラさんをはじめ、日系の人々との出会いは監督にとって影響が大きかったと思いますが、どうでしたか?
 
すずきじゅんいち監督(以下、すずき監督):一番強く感じたのは、我々が今失ってしまっている日本人の良さというものを今も二世の人たちは持っているということ。失った「日本人性」を思い出させてもらった気がします。僕らの親の世代が戦争に負けたことによって、自信を失ったのか、あるいは自ら日本人性を捨てたのか、変わってしまった。でも一世の明治時代に育った人がアメリカに渡り、ハワイに渡り、子供たちを日本の昔ながらのやり方で育てたので、二世の方は今でも日本人性を持っているんですね。
 
Q:ここ5年ほど、NHKのドキュメンタリーで戦争体験者が次々過去の体験を語るようになった気がするのですが、監督はどのように感じますか?
 
すずき監督:日系二世を扱ったテレビ番組は増えましたね。ドキュメンタリーだけでなく、ドラマも増えた。僕が作ってきた3部作の1作目『東洋宮武が覗いた時代』を撮り始めたのは、2007年頃でしたが、日本のなかに日系人に興味を持つ人はほとんどいませんでした。それが急激に変わりました。2年後の『442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』には、お客さんも大勢入ってくれた。第二次大戦のことをもう一回考えようという人が増えたからだと思います。
 
司会:ヤナムラさんは、終戦後に自分の戦争体験を話す機会はあったのでしょうか。
 
ハーバート・ヤナムラ(以下、ヤナムラ):実は第二次大戦の帰還兵のなかで、戦争体験を話す機会は非常に少なかったのです。MISのなかでは特にその傾向が強かった。機密事項として、1960年代後半まで、話すことすら禁じられていましたから。私の場合は、後に聞き書きという形で家族が行いまして、それを娘が読んで、私の戦争体験を全く自分が知らなかったとショックを受けていましたよ。それが、1996年です。
二つの祖国で・日系陸軍情報部

©2012 TIFF

 
Q:映画には様々な戦争体験者が登場しましたが、質問に答えてくれないのではないかという不安はありましたか。また、ここまでは話せるけど、ここからは話せないという人はいましたか?
 
すずき監督:インタビューしたのは、約80人近くいて、およそ500時間に及びます。つまり大変な量の撮影分から2時間弱の映画を作りました。でも、語ってくれなかった人はいませんでした。それは多分、僕が既に日系史の映画を2本作ったのを皆さんもご覧になって、安心していたからではないかと思います。ほとんどの方がリラックスしてたくさん語ってくれました。そういう意味ではラッキーでしたね。よく日系史の本のなかでは、インタビューしても戦場の話などしたくないという人も多い。僕の場合はそういうことはなくて、非常にフランクに語ってもらうことができました。またもうひとつには、彼らが戦った昔の戦場に、僕らが1週間ぐらい一緒に行ったということも、大きかったのではないか。だからその後インタビューのとき、一緒に戦場にいたという仲間意識を持ってくれたのではないか。彼らは、人を殺したということは子供にも話せないと言っていました。そんな場所にも一緒にいたということで、仲間の端っこに僕らを入れてくれたのかもしれません。
二つの祖国で・日系陸軍情報部

©2012 TIFF

 
司会:ヤナムラさんは、戦争体験をご家族にも話せない時期があったということですが、すずき監督たちと出会ったとき、どのように感じましたか?
 
ヤナムラ:私はすずき監督の日系を描いた作品を2本見せてもらって、その情熱に感銘を受けました。MISについてのこの作品を作ることを聞いたときは、協力できることはすべてしたいと思いました。
 
Q:映画のエンディングで、沖縄県の大田昌秀元知事が、MISが牛や豚を贈ってくれたエピソードを紹介しています。他にもそういう例があったら教えてください。
 
すずき監督:物資を贈ったことも大事なんですが、日系アメリカ人が果たした役割の大きさという意味で一番重要なのは、彼らがアメリカ人と日本人のコミュニケーションを取り持ったことではないかと。支配者であるアメリカ人が命令をするだけでは伝わらないことが多いわけですね。文化も発想も習慣も全然違うことすら分からないまま、ワーッとやっちゃったでしょう。その間に立ったのが日系アメリカ人だった。つまり、「翻訳」があったわけですよ。“白人に日系人がこんなことを言っても伝わらないですよ”と言える人がいたわけですね。そのことはあまり言われていませんが。例えば今、イラクとかアフガンとかでアメリカの占領政策が巧くいっていない。それはやはり間に立っている二世的な人がいないからだと思います。そういう人がいれば、お互いの意見を調整してこれだったらアフガンの住民にも分かる、アメリカ人にも分かるとなるんでしょうが…。日本の場合は運良く戦争が終わった後、6千名ぐらいの日系二世が日本に来て間に立ったわけです。
 
司会:ヤナムラさんは、戦時中に日本人に接したときと、戦後日本人に接したときと気持ちの変化はありましたか?
 
ヤナムラ:戦時中は日本兵とのやりとりはなかったですね。捕虜の尋問をするときぐらいでしたね。
 
司会:お気持ちを考えるだけでもつらいですよね。捕虜の人たちに尋問するという…。
 
ヤナムラ:(キッパリと)そんな感じはないですね。捕虜となった人物は、ほとんど負傷してるんですね。動けない、歩けない。連れてこられるときは、担架に乗っているんです。そして、私が話しかけるととっても安心するんです。そして衛生兵に頼んで治療をするようになる。それから、安心させて情報を引き出すためタバコを与える。すると、笑顔も見せるようになる。とってもおいしいという顔をする。それから、食べ物を与えると、お腹が空いていないというんです。はじめは遠慮してるのかとも思えるのですが、ははぁ、毒が入ってると思ってるんだなと思って、自分で食べてみせるんです。そして、また渡すとすぐ食べちまうんです(笑)。喜んで食べて、どうもありがとうございましたとお礼も言ってくれる。私たちと捕虜との関係は、そういう状態でした。
二つの祖国で・日系陸軍情報部

©2012 TIFF

 
司会:最後に、日系3部作を完成されましたすずき監督の今の気持ちをお聞かせください。
 
すずき監督:とにかく出演してくれた皆さんが高齢なんで、記録を残すには今しかないという一念で作りました。それを完成できて、安心したのが今の正直な感想ですね(笑)。
二つの祖国で・日系陸軍情報部

©2012 TIFF
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