芸術性と興行力の両面で、いままさに最盛期を迎えようとしているインドネシア映画界。今年の東京国際映画祭でも、アジアの風部門で「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト」と題したインドネシア映画の特集上映を行いました。
同特集でフィーチャーされた3人の監督のうち、一番若いエドウィン監督は、世界の映画祭での注目を一身に集める、気鋭のアーティストです。
10/21(日)、最新作『動物園からのポストカード』の上映後に、エドウィン監督によるQ&Aが行われました。
司会:まずひとこと、監督からご挨拶をいただきましょう。
エドウィン監督:今回、皆さんに僕の長編2作目『動物園からのポストカード』をご覧いただいて、とても嬉しく思っています。じつは、僕の長編1作目『空を飛びたい盲目のブタ』は、2006年の東京国際映画祭と同時開催された企画マーケット=TPG(Tokyo Project Gathering)に入選した作品で、この時、審査員の前で初めてピッチをするという経験をしたこともあって、東京というこの場は、僕にとって特別な場所なんです。
司会:監督は、東京国際映画祭には初参加ですけれど、『空を飛びたい盲目のブタ』は大阪アジアン映画祭で上映されましたし、日本には何度かいらっしゃっています。それで、私の方からいくつか質問をしたいんですけれども。動物園がほんとにお好きなんですか。
エドウィン監督:好きですね。今日も成田に着いて、ここに来る前に上野動物園に行ってきました。(客席からどよめきの声。)
司会:エドウィン監督が感じてらっしゃる、動物園の魅力というのはどういうところでしょうか?
エドウィン監督:僕はインドネシアのスラバヤ生まれ、育ちなんですけれども、スラバヤにも、もちろん首都ジャカルタにも、それぞれ動物園があります。ジャカルタは大都市で、多くのストレスを抱えた人がひしめき合っている。そんな空間から逃げ出したいと思った時に行く公共の場所、それが動物園なんです。ジャカルタの動物園は街中にあるんですけど、別の現実がそこには存在しています。ここは、インドネシアの中ではかなり大きな動物園なので、ジャカルタ以外、ジャワ島以外からも人が来ているんですね。ですから、人を観察したり、人生を模索するのにも最適です。あと、緑が多いのもいいですね。僕は月に3回くらいは動物園に行っているので、だんだんそこにいる皆さんと顔見知りになります。そこで知り合ったひとりに、かなりお年を召した白髪で長髪の方がいて、彼は親のいないトラの子供の面倒をみているんですけど、もう動物園の中に23年ほど住んでいて、外に出るのは年に2回くらいのことなんです。動物園の中には、色々と美しいお話があふれていますね。
ここから、質問タイムに。
Q:夜の動物園がとてもステキに撮影されていて、美しい映画でした。出演している俳優たち、主演の女性も含めて、動物とのふれあい方が非常に自然だったんですけれども、彼らの中には実際に動物園で働いている人もいたのでしょうか? あるいは、何か特別な訓練を受けたのでしょうか?
エドウィン監督:夜のシーンを気に入っていただけて、どうもありがとうございます。じつは、あのシーンは夜には撮っていないんですね。夜の動物園はとても危険ですから。デイ・フォー・ナイト/アメリカの夜という撮影技法で、日中に撮っても夜に見えるんです。なんだかちょっと夢見るような、浮遊感が出ていたかと思います。そして、俳優たちなんですけれども、実際に動物園で働いている飼育員、職員の人たちが含まれています。“動物園にいる人”の中では、プロの役者は主演のラナ役のラディア・シェリルだけですね。なので、彼女は1年間、毎週のように動物園に通ってキリンに慣れていって、あそこまで接近できるようになりました。
Q:この映画は何を訴えたいのか、メッセージは何でしょうか。動物園の部分のメッセージ性はわかったのですが、ヒロインのラナがスパで働くようになり、よくわからなくなりました。その辺りの、監督の意図をおきかせください。
エドウィン監督:自分の気持ちとしては、この映画は、迷いというか、行き場のない心情を扱っています。動物に関していえば、キリンは東南アジアには存在しません。アフリカから連れて来られたもの、つまり「そこには属さないもの」です。動物園というのは、私たちの社会の鏡のような場所ではないでしょうか。ジャカルタに住んでいる人にも、そういうことが多く見られると思います。大都市というのは、他所から来て、そして去っていく場所。その土地には馴染めないんだけれども、仕事のために無理している人がいる。あるいは、何故いるのかよくわからないけど、そこにいる人もいる。ラナが働くスパでも、スタッフの女性たちも、男性客たちも、社会の中で行き場がない、所在のない人たちが、人に触れたい、人との肌の感覚を取り戻したいと求めあっている。それは動物的なもの、といってもいいかもしれません。ラナは肌のぬくもりに飢えていて、マジシャンのカウボーイに簡単に魔法にかけられて、動物園を出てしまい、そしてスパに行き着くのですから。
Q:この作品は、一種のおとぎ話のように感じました。マジシャンのカウボーイは、どうしてラナを連れ出して、そして姿を消してしまったのでしょうか?
エドウィン監督:ラナは父親に捨てられた、という設定なのですが、カウボーイもラナの父親のようなものかもしれません。子供を捨てる親、その理由は様々だと思います。現実逃避であるとか。ですから、カウボーイがなぜ消えてしまったのか?というご質問へのお答えも「状況が彼をそうさせてしまった」ということになるでしょう。彼は「ラナと一緒にいたい」と願ったけれども、複雑な事情があってああなってしまったのでしょう。人それぞれの解釈にもよりますが、カウボーイというのは西洋文化の、資本主義の象徴といえると思います。というのも、僕自身、カウボーイは(西洋の)映画の中でしか見たことがありませんし。カウボーイを資本主義だととらえると、資本主義が外国から入ってきて、そして何かを与えたと同時に人びとを路頭に迷わせて、そして見捨ててしまうというのが、ひとつの考え方かもしれません。
司会:「解釈は開かれている」ということなのかと思います。エドウィンさんの上映会は、トークショーを含めて、いつも“エドウィン不思議ワールド”になりますね。好きなアーティストや映画監督がいらっしゃったら教えていただきますか?
エドウィン監督:それは難しい質問ですね。アジア映画ならたくさんあると思います。無意識に影響を受けていることもあるでしょう。アジア圏の映画だと、文化的にインドネシアに近いですからね。ただ、具体的な名前を挙げていくとなると、すごい数になってしまいそうなので・・・
Q:この会場にいるすべての人が、それぞれの解釈をしたことと思います。僕も、映画の旅を楽しませていただきました。そこで、僕なりに解釈をしてみたのですが、どうしてもあのラストシーンについてだけはきいてみたくて。ラナがキリンのお腹をさわる、あのシーンにはどのような意味が込められていたのでしょうか?
エドウィン監督:そのことについては、とくに答えを用意していなかったのですが・・・僕自身がキリンのお腹にさわりたかったんですが、その勇気がなかったもので、代わりに俳優にさわってもらったということでしょうか(場内笑)。自分の目標を達成する、というか。これは、シンプルな比喩なのかもしれません。「自分の夢を忘れないで」という。ラナは子どもの頃から「キリンのお腹をさわりたい」と願い続けてきました。そういう強い気持ちがあって、それが叶う。希望の象徴ですね。
司会:では、最後にひとことメッセージをお願いいたします。
エドウィン監督:メッセージというのは特にないんですけれども、今日、会場に来てくださって、映画を観てくださって、最後まで残ってこのQ&Aセッションに参加していただけたことを、とても嬉しく思います。