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2012.11.26
[イベントレポート]
【全文掲載】「若者には、もっと勇敢に問題と戦って欲しい」――10/24(水)アジアの風「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト~」シンポジウム

【全文掲載】:
10/24(水)、アジアの風『動物園からのポストカード』の上映後、「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト~」と題されたシンポジウムが開催され、ガリン・ヌグロホ監督リリ・リザ監督エドウィン監督が登壇しました。
司会は石坂健治プログラミング・ディレクターです。
「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト~」シンポジウム

©2012 TIFF

 
石坂PD:リリ・リザ監督は先ほど到着されたばかりです。実はエドウィンさんが現在オランダにお住まいなので、お三方がそろうのはとても珍しいことです。それでは、まずひと言ずつご挨拶をお願いします。
 
リリ・リザ監督(以下、リザ):東京国際映画祭に来ることができてとても嬉しいです。私は今回2回目の東京です。初めて東京に来たのは2006年で、ヌグロホ監督の映画のマネージャーとして来日しました。インドネシアの特集では『虹の兵士たち』『夢追いかけて』の2作品、コンペティションでは『ティモール島アタンブア39℃』が上映されます。また、私の映画で脚本とプロデュースを担当しているミラ・レスマナが会場に来ているので、この場を借りて紹介させてください(レスマナさんが客席からお辞儀。レスマナさんは『ティモール島~』のQ&A記者会見に登壇しました)。
 
ガリン・ヌグロホ監督(以下、ヌグロホ):本日はどうぞよろしくお願いいたします。今回東京で2人のインドネシアの監督に会うことができ、とても嬉しく思います。この2人はインドネシア映画界を将来牽引していく監督です。エドウィン監督の『空を飛びたい盲目のブタ』をロッテルダム国際映画祭で観たとき、「これはすごい作品だ!」と思い、インドネシア映画がこれから若い世代に引き継がれていくのだということを確信しました。恐らくこの2人は、インドネシアの映画がさらに豊かに発展していくことを約束してくれるでしょう。
東京国際映画祭は私にとって家のようなものです。1994年(第7回。京都で開催された。)に『天使への手紙』がヤングシネマ・コンペティション ゴールド賞を受賞した際には2000万円の賞金をもらい、そのお金で私は家と車を買うことができました。2006年にはコンペティション部門の審査員も務めました。昨年(2011年)は私の娘(映画監督のカミーラ・アンディニ)がTOYOTA Earth Grand Prixを受賞する(アジアの風出品作品『鏡は嘘をつかない』が受賞)ことができました。本当にどうもありがとうございます。東京はいつになっても私の友人のような存在です。
「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト~」シンポジウム

©2012 TIFF

 
エドウィン監督(以下、エドウィン):まず、私は2000万円ももらったことはないのですが(笑)、東京国際映画祭に来ることができて本当に嬉しく思います。日本の映画や20年前くらいの漫画が好きなので、その文化に慣れ親しんできた日本に来られたことも、上野動物園に行けたことも嬉しいです。
 
石坂PD:まずはそれぞれのお名前について聞かせてください。ガリンさんは本名ですが、リリさんは違いましたよね?エドウィンさんはいかがですか?
 
リザ:リリというのは、私の母親の子どもの頃のニックネームです。おそらく私の母は女の子が欲しかったのではないかと思います(笑)。本名は、ムハマッド・リファイ・リザです。
「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト~」シンポジウム

©2012 TIFF

 
エドウィン:エドウィンというのは本名で、苗字はありません。苗字がない人というのは、私の出身地スラバヤだけでなくインドネシア全体にいます。その一方で、ジャワの方には長い名前を持つ人が多くいます。母がアメリカ人かオランダ人のエドウィンという人が好きだったことから、エドウィンと名づけられたようです。
 
石坂PD:エドウィンさんは作風だけでなく名前もモダンなのですね。有名なジーンズから取った芸名なのだろうかと思っていたので、失礼しました(笑)。3人ともジャカルタ芸術大学(IKJ)との関わりがあるそうですが、ヌグロホさんとリザさんは先生と学生という関係だったそうですね?
 
リザ:私が学生だった頃は、ガリン監督はまだ先生にはなっておらず、アシスタントとして学校で働いていました。もちろんよく知った仲で、いつも顔を合わせていました。
 
ヌグロホ:ジャカルタ芸術大学では、若い人たちと新しい映画を作ることによって新しい道が開けると考えているので、リリ・リザをはじめ若い映画学徒たちを現場スタッフとして採用しました。当時、映画を作るにはアシスタントを5回以上経験していなければならないという決まりがあったのですが、それに反抗してみました。若い人たちは私が持っていない何かを持っていますし、新しい何かを生み出すことができるだろうと思ったからです。『スギヤ』を製作したときにも、新しいスタッフをたくさん使いました。
「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト~」シンポジウム

©2012 TIFF

 
石坂PD:3人は作風も異なりますが、生まれた年もガリンさんが1961年、リリさんが1970年、エドウィンさんが1978年と違いますね。エドウィンさんもジャカルタ芸術大学に通われていたのですか?
 
エドウィン:もちろん在籍はしていましたが、卒業はしていません。学校に入ることの目的はドロップアウトすることですからね(笑)。
「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト~」シンポジウム

©2012 TIFF

 
石坂PD:リリさんたちが映画を学び始めた90年代はスハルト政権時代の末期で暗黒時代と言われていて、映画業界にとっては辛い時期でした。ガリンさんだけが孤軍奮闘していて、日本にも紹介されてきたという感じでした。あの頃を考えると今はすごく状況が変わったという印象があり、今回この特集を組むきっかけになったのですが、暗黒時代から今日までの流れをそれぞれの世代の立場からお話しいただけますか?
 
リザ:私が学生だった90年代半ばごろから、インドネシアでは民主化の波が広がっていきました。95年、96年頃にはアジアを中心に国外からの情報が多く入ってくるようになり、私も先ほど紹介したミラ・レスマナ達とともに映画を作るようになりました。この頃からインターネットやDVDを通じて情報を得ることができるようになってきたので、私たちの世代以降の若者たちは情報を得やすく、様々な形でコラボレーションをできるようになってきたということができます。私が映画を作り始めたころは、映画業界というのは規制が多く、政府によってシステム化された業界でしたが、90年代半ば以降になって、検閲等の規律が緩やかになっていきました。新しい映画が作りやすい時代になったのです。そして初めて、短編やドキュメンタリーのような様々な種類の映画製作が可能になりました。先ほどのエドウィン監督も言っていましたように種類は多くありませんが、それなりの種類もそろってきたのではないかと思います。
 
石坂PD:先ほどのエドウィンさんのお話というのは、登壇前に伺ったお話のことで、「90年代のインドネシア映画はポッカリ空いていて、ガリンさんだけがいた。それ以前は巨匠たちがいたが彼らは現在活動しておらず、最近になって若手が台頭してきた。ガリンさんはそのちょうど真ん中にいて、巨匠たちと若い世代の映画人の両方とつき合いがある唯一の存在だ」という内容でした。ガリンさん、真ん中という自身の立ち位置についてどう思われますか?
 
ヌグロホ:90年代は私にとっては移行期だったと思います。当時は製作される映画が非常に少なく、全てあわせても年間4作品ほどでしたので、まさに90年代はインドネシア映画史における空白の時代だったと言えます。当時のインドネシアはスハルト大統領の軍事政権下にあり、出版業界そして映画業界は政府が掌握していました。政府が作り上げたシステムに入り込むにはある程度の映画製作の経験が必要だったため、若い人が出てくるのは難しい時代でした。私自身は非常に有名な監督を知っていて、彼らから色々と教わってきましたが、彼らの助監督やアシスタントを務めたことはありません。新しいシステムを作るためには自らの手ですべてを切り拓いていくことを余儀なくされました。海外の映画祭で上映される映画も政府が選んでいるという状態でした。私の作品『一切れのパンの愛』が、1991年の東京国際映画祭で初めて上映された時もインドネシア政府の協力は得られず、国際交流基金(ジャパンファウンデーション)のみなさまや映画評論家の佐藤忠男さんにご支援いただきました。ですが、当時の私のその行動は従来のインドネシア映画のシステムに反するということで、インドネシア映画界から抗議を受けました。今若い監督が出てきているというのは私の夢が叶ったと感じていますし、時には私の作品より優れたものも見受けられます。私の時代は政府や軍、スハルトのような何かと戦わなければ映画をつくることができないという時代でした。
 
石坂PD:91年にガリン監督のデビュー作『一切れのパンの愛』が上映されたとき、佐藤忠男さんがご尽力されたというのは非常に懐かしい話です。
 
エドウィン:90年代初めには私はまだ中学生か高校生で、ガリンさんがインドネシアの映画界を独りで引っ張っていたということすら知りませんでした。90年代初めには民間のテレビ局が増え始め、それまで映画界にいた人々の多くがテレビの世界に移りました。若者はテレビが非常に盛んな時期に育ち、子どもの時からマスメディアに触れる機会を多く持っていましたが、彼らが従来のマスメディアに飽きて新しい物を求め始めたから映画製作にかかわる若者が増えたのではないかと思います。
ガリンさんの『枕の上の葉』(98)は地方の小さな映画館でも上映されていたので、僕自身はその頃に初めてガリンさんを知りました。『枕の上の葉』が上映された頃、私はまだスラバヤにいたのですが、スラバヤの映画館の客席のお客さんはまばらで、流行っている印象ではありませんでした。メディアでの露出が多かったので『枕の上の葉』を見たのですが、インドネシア人に広く受け入れられたという感じではありませんでした。当時は若者の関心が読書などではなくゴシップのようなものにあったので、『ビューティフル・デイズ』(02)(原題:“チンタに何が起こったか”)や『シェリナの冒険』(00)、『クルデサック』(98)のような映画に若い子たちが惹きつけられたのではないかと思います。それまでは私自身でさえハリウッド映画を並んで見ようとは思わなかったので、このような若者向けの映画によってインドネシアの若者が初めて映画に関心を抱くようになったのだと言うことができます。
他の要因としてはインターネットでの露出が増えたことも挙げられます。国内だけではなく様々な方向から双方向のコミュニケーションが可能になったので、映画を見る姿勢もそれによって変わっていきました。そしてさらに大事なことには、98年頃から様々な映画祭が開催されるようになったということです。短編の映画祭は98年から2001年頃にかけて集中的に活動が活発になり、映画の作り方や見ることに対する関心が高まったのではないかと感じています。
 
石坂PD:『シェリナの冒険』はリリさんの単独監督デビュー作です。少女が主人公のミュージカルで、それまでになかったような爽やかな作品ですね。そして『ビューティフル・デイズ』も大ヒットした作品で、この映画以降インドネシア語で“愛”という意味のチンタがタイトルについた映画がたくさん製作されました。『クルデサック』はリリさんも加わったオムニバス映画です。つまり、21世紀への扉を開けたインドネシア映画の多くにリリさんが関わっているということになります。ガリンさんのアーティスティックな演出を近くで見ていて、いざ自身で監督するとなった時に、どんなことを考えられていましたか?
 
リザ:私がデビューしたころ、私自身もアーティスティックな映画をよく見ていましたし、興味はありました。日本の黒澤明監督の映画なども見ていました。しかし、私が95年に映画を作り始めたころは、インドネシアの観客、特に若い観客に見てもらうことが一番大切だと思い、映画を作っていました。観客数を大事にするという考えは、90年代初めに比べるとより強くなっていると思います。日本、ハリウッド、中国など様々な国の映画を含め、より多くの映画に観客が惹きつけられることが大切だと思います。
 
石坂PD:ガリンさんはここ1年で2本作品を撮るほど活発に活動されていますが、ご自身がこれから目指していきたい方向性と若手に対する教育者としての面について教えてください。
 
ヌグロホ:私がこれから先やっていきたいのは、国内の状況と対話をしながら映画を作るということです。その対話が必要でないものに関しては大事だと思っていません。どの時代においても、私たちはなにかと戦っていかなければなりませんし、芸術が戦わなければならないものはいつの時代にもあると思います。昔の話で言えば、その相手は軍でしたし、現在だと宗教の過激派です。次に対峙しなければならないと考えているのはインドネシアの市場主義や消費主義の問題で、私には止まっている時間はありません。将来に向けて歩み続けなければいけないと思っています。私は現在5つの都市で約600人の若者が参加する映画製作のワークショップを開催したり、ジョグジャカルタやワカトビでもアジア映画の映画祭を行ったりしているのですが、若者に対して「もっと勇敢に問題と戦って欲しい」と訴えたいです。私が映画に携わるときには、これまで作られたことがなかった映画を制作することを必ず念頭に置いています。例えば、パプアやアチェでの紛争の問題や、イスラムの過激派の問題、以前に製作した『オペラジャワ』(06)に様々な芸術の要素を取り入れたインスタレーションも考えています。絶えず何かに反対していくこと、挑戦していくことというのは、私にとっての原動力となっています。
 
石坂PD:リリさんは『虹の兵士たち』や『夢追いかけて』で歴史を塗り替えたヒットメーカーであると同時に、コンペティションで上映される『ティモール島アタンブア39℃』のように作風が全く違う作品を監督されていて、作品の幅がとても広いですよね。これからどのような作品に挑戦していきたいですか?
 
リザ:インドネシア映画は現在、新しい段階に入っているのではないかと思います。この10年ほどは経済の好況を受け、非常に恵まれた状況で、資金面でも恵まれていましたし多くの観客を動員することもできました。ですが、私は同じことをただ繰り返すことはしたくありません。インドネシアは非常に広い国土を持っていますし、文化や宗教も多様です。そうしたテーマを扱っていきたいですし、表現手法にもこだわらずにいろいろと試していきたいと思っています。費用の面でも、多くの資金を使って製作する作品から低予算映画まで、型にはまらず様々なことに挑戦していきたいと思います。
 
石坂PD:エドウィンさんはオランダで勉強しながら映画を製作されているということですが、今後何かやってみたいことはありますか?
 
エドウィン:私はいまアムステルダムで映画の勉強をしていて、匂いを映画で表現できたらと考えています。まだ完成していませんが(笑)。今はポルノ映画を作ろうかという考えもあって、これに関しても匂いを表現できればいいなと考えています(笑)。
「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト~」シンポジウム

©2012 TIFF

 
石坂PD:最後にエドウィンの不思議ワールドが出てきたところで(笑)、お開きにしたいと思います。最後になりますが、お三方とも日本とのつき合いが長いですね。ガリンさんは東京国際映画祭と長いご縁がありますし、リリさんはほぼ全ての作品がアジアフォーカス・福岡国際映画祭で上映されていて、エドウィンさんを最初に発掘したのは大阪アジアン映画祭です。日本は国際映画祭の層が厚いので、今後も3人の作品を日本国内で紹介していければと思います。また、この場を借りてこの特集をサポートしてくださった国際交流基金さんにお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
 
ヌグロホ:最後に、来年に企画している作品は新しいことを取り入れた映画というより“ポストシネマ”となるような作品に取り組む予定です。無声映画からトーキー、そしてミュージカルになったり、映画の中に芸術家や音楽家を取り入れることを考えています。80年代頃の映画を新しく作り直すことを考えています。来年は芸術のインスタレーションを行います。映画の枠を超えた映画の概念を拡げるような活動を行う予定です。
 
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シンポジウムの最後にガリン・ヌグロホ監督が国際交流基金に対し感謝の意を述べ、映画から美術・演劇にわたる諸分野を横断するアーティストとしての30年間の歩みが綴られた自伝的な書籍が贈呈されました。
「インドネシア・エクスプレス~3人のシネアスト~」シンポジウム

©2012 TIFF

 
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