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2012.10.25
[イベントレポート]
10/24(水)日本橋で日本映画を観よう『空を拓く~建築家・郭茂林という男~』:Q&A

10/24(水)日本橋で日本映画を観よう『空を拓く~建築家・郭茂林という男~』の上映後、酒井充子監督が登壇、Q&Aが行われました。
空を拓く

©2012 TIFF

 
Q:前作の『台湾人生』は台湾の一般の方々を描いていたのが、今回一転して、名のある建築家を取り上げています。どうやって繋がりを付けたのでしょうか。
 
酒井充子監督(以下、酒井監督):きっかけは、1作目の『台湾人生』を見てくださった発起人の加藤(美智子)さんからのお電話です。私自身、建築は全くの門外漢で郭茂林を知らなかった。たぶん、建築業界以外で知る人は少ないのではないでしょうか。その後、郭さんご本人が『台湾人生』を見てくれて、一緒に話す機会があったのですが、お話をするうち、郭茂林が一体どんな人かという観点で撮りたいと思いました。当時の街の様子を描きつつ、その仕事を伝えることができればいいなと。
 
司会:どのくらいの期間が撮影にはかかったのでしょうか。
 
酒井監督:映画のなかで郭さんが台湾を訪れているのが2010年頃ですけど、前年の夏頃からカメラを回し始めました。実は、台湾から戻った後ご本人が体調を崩されて、ほとんどカメラを回せない状況になってしまい…。夏から秋にかけての短い時間ということになります。
 
司会:短い時間なのに不思議なほどスクリーンの前の郭さんはとってもリラックスしていますね。今、この会場に出てきて「またお茶でも」と言いそうな感じ(笑)。
 
酒井監督:映画ができあがった後に、プロデューサーが「郭さんは酒井さんを自分の孫みたいに思っていたんじゃないのかな」と(笑)。あの自然な感じというのは、撮影スタッフと郭さんとの関係性のなかで出てきたものだと自負しています。私の全作品を担当してくれているカメラマンの松根さんが、郭さんのいきいきとした表情を捉えてくれました。
 
司会:郭さんは、台湾語と日本語と両方を喋っておられますが、どちらを日常語とされているのでしょうか。
 
酒井監督:幼い頃から日本語教育を受けて、中学を卒業した後すぐ日本に来たということもあって、おそらく一番話しやすい言語は日本語になったと思うんですけど、それでもやっぱり子供の頃の学校を訪ねる場面では、随所随所で台湾語が出て…。お母さんに育てられた言葉が出てるんじゃないかと思いました。
 
司会:ご自分が作った建物に出会うときの嬉しさの表現が凄いですね。恋人を褒めるようで(笑)。
 
酒井監督:「いいプロポーションでしょ~?」とかね(笑)。あれだけ自分の作ったものを衒いなく褒めるって凄い。ときどき他の人の作ったのを批判したりしながら、自分のものを褒めちぎるっていう、あの天真爛漫さが郭さんの魅力のひとつです。
空を拓く

©2012 TIFF

 
司会:断腸の思いでカットしなければならなかったシーンはありますか?
 
酒井監督:今回はギリギリの素材で編集したので、いかに郭さんの魅力を少ない素材のなかから伝えていくか苦心しました。編集マンの糟谷さんがいなければ、この映画は成立しなかったと思っています。
 
Q:戦前に郭さんが日本に来てから、霞ヶ関ビルのプロジェクトまでの戦後復興期が描かれていませんが、何か理由があるのでしょうか?
 
酒井監督:秋に台湾から郭さんが戻ってからじっくり伺おうと考えていましたが、急に体調を崩されたこともあって実現しませんでした。
 
司会:それにしても、郭さんのあの明るさはどこから来るのでしょうか。
 
酒井監督:人が好きだし、人からも愛される明るさっていうのでしょうか。あの明るさが、技術者だけでなく周りを引きつけるのだと思います。
 
司会:「女性にもモテたと伺っています」いう声が映画のなかでも聞こえますが、あれは監督のお声ですよね(笑)。
 
酒井監督:郭さんがモテた話は、いろんなところから伝わってきましたね(笑)。昔のお写真も素敵ですし、さぞかしと。8人兄弟の末っ子ということもあって、人から可愛がられる術というか、自然に身に付いたものはあるのかもしれませんね。
 
司会:郭さんは映画のなかで、自分は人をまとめるのが得意とか、仲間がいないとひとりでは何もできないと何度も仰っていますが、郭さんの名前が意外と世に知られていないのは、そういう郭さんの性格からでしょうか。
 
酒井監督:実は、名前が知られていないことを郭さんは楽しんでいたのではないかと。自分が力を注いだ仕事をみんなから認められることを、外から眺めて楽しんでいたと思います。
 
Q:私は若いころ、浜松町の世界貿易センタービルの設計を手伝って現場にしばらくおりました。そのとき設計事務所とゼネコンさんが大喧嘩をしました(笑)。設計事務所が武藤清先生の一形鋼を採用しないと言ったのが原因です。その間を取り持ってくださったのが、他ならぬ郭先生でした。現場では名前を聞いただけでも震えて鳥肌の立つ存在でしたが、その先生が毎週木曜日には現場に必ずケーキを持っておいでになるのです(笑)。やはり、オーラというものがあるんですね。
 
酒井監督:素敵なエピソードを話してくださり、ありがとうございます。
 
司会:では最後に、現在制作中の作品について聞かせてください。
 
酒井監督:『台湾人生』では台湾の日本語世代のお年寄りに、統治時代の思い出を聞く作業をしたのですが、次回作では、彼らの戦後を描こうと思います。
 
日本橋取材担当:やまだおうむ

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