木村文洋監督 (『愛のゆくえ(仮)』)
木村文洋監督作品『愛のゆくえ(仮)』の魅力はありきたりなものではない。モノクロで撮影され、ほとんどのシーンが狭苦しい暗いアパートの一室で繰り広げられる本作は、中年カップル・陽子(前川麻子)と浩司(寺十吾)の、ある夜と翌朝の日常のひとときを映し出す。ふたりはカレーを食べ、これまでの人生を語る。一見、普通の感じがするが、陽子の発言から、彼女が名前を変え、決して友人を作ってこなかったことが分かる。そしてふたりは何度も引っ越しをしてきたことも。彼らは逃亡者なのだ。
日本の観客なら物語の背景となった出来事を知っているだろう。1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の元幹部・平田信が、17年間の逃走を経て、監禁致死容疑で逮捕された。その後すぐに、その逃走期間のほとんどを共に過ごした女性も自首し、犯人蔵匿罪で逮捕された。
日本人ではない観客はもしかすると、本作の完成度の高さを享受できないかもしれない。だとしても、カップルの間に流れる疲弊した空気などの緻密に作りこまれた雰囲気をつかめない、というわけではない。浩司が自首することが最後に明らかになるが、浩司と陽子が一緒にいるとき、ふたりの振る舞いに不安の影はない。過去が重くのしかかる彼らにとって、未来は重要ではない。ふたりはこの生活に疲れきり、互いへの確かな愛はあるものの、変わる時が来ていた。
「これは17年間ともに過ごしたふたりの人間の物語です」と木村監督は話す。「住む場所を転々とするたびに、女は名前を変え、別の人間になりすまし、男は日の高いうちは外に出なかった。しかし2011年3月の地震によって、彼らは自首を決心する。それは彼らにとってどういうことなのか。私たちにとってどういうことなのか。それを突き詰めてみたかったのです。ラブストーリーだと思う人もいれば、そう思わない人もいるでしょう。私はラブストーリーだと思って作ってはいません。このふたりの人間の物語を描きたかっただけです」
素早く企画された映画であることは間違いない。平田信の出頭から1カ月経たないうちに、木村とふたりの役者は本作の企画を立ち上げ、監督と女優の前川は共同で脚本を書きはじめる。撮影は今年の4月。
「描くのは難しいと思っていましたが、ふたりの過ごした時間を一晩に圧縮し、登場人物をふたりに限定することで、時間の流れ、つまり実際には17年間を共に過ごしたという時間の長さを表現できるのはないかと考えました」と木村監督は話す。また、観客が作品の背景が分からなくても、意図した作品世界は伝わると、監督自身は特にこだわっていない。
「観客次第だと思います。この17年間、日本で何が起きたのかを知りたいと思う観客もいるでしょう。あるいは何も知らない外国人の観客でも、別の事情で自分の部屋から出られない人間の境遇とつなげて共感する人もいるかもしれません。おそらく観る方によって、理解するものは違うと思います。中国の映画監督ワン・ビンの『鳳鳴(フォンミン) — 中国の記憶』という作品があるのですが、それは文化大革命から戦後の苦難を生き抜いた老女がみずからの経験を語る姿をとらえたドキュメンタリーです。おそらく一晩くらいずっと語っているわけです。それを観た後、私はもっと中国の歴史について学びたいと思いました。想像力をかきたてたり、もっと学びたいと思わせるのも映画の力だと思います」
ふたりの俳優はこの作品に絶対に欠くことのできない存在だと木村監督は話す。登場するのはこの2名だけであり、物語の大部分は彼らの微妙な会話や絡みから間接的に語られる。表面的には、彼らは典型的な倦怠期の夫婦のように見えるが、この作品の本質はそこにはない。
「俳優のおふたりは20年近く舞台役者をやってこられました。演劇の場で大人数をまとめてきた長い経験があり、脚本の書き方や芝居については熟知しておられます。正直、私にはその時間の重さは分かっているとは思いません。ですので、今回は私が演技を引き出したというより、おふたりの経験や演技をできるだけ尊重したという感じです。スクリーンに疲れ切った空気がリアルに出ていたのであれば、それはおふたりの力であって、私のではありません」
実は監督はもっと現実的な心配事を抱えていた。例えば、浩司が暗いアパートの部屋から、厳しい太陽の光のもとへ出て自首をしにいく最後の長いシーン。そのシーンは3時間かけて撮影されたが、当然、それぞれの事情を抱えて道行く一般の人々のなかを、俳優は演技をしながら歩き、公衆トイレに入り、混雑した電車に乗らねばならない。神経をすり減らす撮影だ。
「カメラマンは電車のなかで乗客から蹴られたみたいです」
聞き手:フィリップ・ブレイザー(ライター)
(本記事は映画祭公式英語サイトに掲載された記事を翻訳したものです)
愛のゆくえ(仮)