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2012.11.12
[インタビュー]
公式インタビュー 日本映画・ある視点『GFP BUNNY―タリウム少女のプログラム―』

GFP BUNNY

 

土屋 豊監督(『GFP BUNNY―タリウム少女のプログラム―』)※公開タイトル『タリウム少女の毒殺日記』
GFP BUNNY

©2012 TIFF

 
本作のなかで、「物語なんて無いよ」というセリフがある。言い換えれば、現実の世界には映画が通常描くような意味の物語はない。倉持由香が演じる主人公、十代の無名の少女は“観察”という行為に憑りつかれている。経験に基づいたことしか信じないからだ。映画そのものはかなり冷静客観的で、劇中に出てくる各分野の専門家の解説が、フィクションのパートにしばしば挿入される。日本映画・ある視点部門の本作に何らかのストーリーがあるとすれば、それは2005年に実際にあった事件――ひとりの少女が母親にタリウムを規則正しく投与し、その状況を観察してブログに記録した――に基づく物語だ。
 
「映画のなかで主人公の少女が日記を読んでいますが、そのテキストの大半は、実際の少女がブログに書いた文章を使っています。そのブログは今でもアーカイブされていて読むことができるのです」と土屋監督は話す。
 
少女は母親にひそかに投与したタリウムの量や身体への反応を克明に記録する。さらに、携帯電話のカメラで、生きたカエルの解剖写真や自然現象のビデオを撮影したり、母親のペットの金魚を実験台にしてみたりする。「コントロールする遊び」と、時折、第四の壁を突破して劇中の少女(倉持由香)に話しかける監督に向かって、彼女は言う。「あなたが今、私にしていることと同じ」だと。
 
土屋監督はこう語る。
「すごく抽象的な言い方になりますが、彼女は古い人間観という人間性は失いつつあります。しかし、僕らには想像もつかないような新しい人間観を掴みつつあるのだと思います」
GFP BUNNY

©2012 TIFF

 
通常の映画の見方でこの作品にアプローチすると、展開を取り違える観客もいるだろう。少女がクラスメートたちから情け容赦のないいじめを受けるシーンがいくつかある。実際の事件が報道された際も、彼女の行動はいじめに対するリアクションだとメディアは暗に伝えていた。監督はその見方に異を唱える。
 
「報道されていることは、メディア上に書かれているだけであって、実際リアルなところでは違うことが行われているかもしれません」劇中でも、この見方について監督が少女に直接問う場面があるが、彼女はいじめの影響を激しく否定する。いじめた人間たちを認識しようとさえしない。
 
さらに、いやらしい男性教師(古舘寛治)は恩に着せるような態度で、いじめの事実を認めさせようとするが、彼女はあからさまに侮蔑的な態度で応答する。教師は無力な教育制度の象徴ではなく、変化する人間性の定義に適応できない世代の象徴だという。
 
「彼は大人のしらじらしさを象徴するために映画に込めたメッセージだと言えると思います。彼が「人間は元々自由だ」という言葉のしらじらしさを描ければいいな、と思って、彼をまったく重みのない人間に描いたのです。『人間は自由だ。ICチップを手に埋め込むなんて倫理に大問題だ』という人の嘘っぽさは僕自身が感じていることです。『人間はどこにいても自由だ』という人が携帯を持ち、居場所をGPSで伝え、パスモを使って移動経路の履歴を残し、ネットショッピングで購買行動の履歴を残していることに無自覚でいるように思えます。この世の中に本当に自由な人なんているのか、ということを自覚もせずに、『人間の尊厳を守るためには…』などと言うことが、意地悪な見方をすれば、ちょっと無自覚に見えるので、若者/大人ということではなく、そういう世の中になっているのだということにもっと自覚的になってほしいということが全体として伝えたかったことです。」
 
それに比べて、映画に登場する過激な身体改造の愛好家(ピアス、タトゥ、インプラント)はより正直――もしかすると、より自由なのかもしれない。一方、少女の母親(渡辺真起子)は滑稽な人物として描かれている。老化防止の整形手術を受けているのが一因だろう。整形手術は若さ=魅力という固定観念にとらわれ、若さを取り戻そうとする、いわば後退的な行為である。身体改造の愛好家は何か新しいものに変わりたいと願う。
「彼らは自分の体というものを自分の体として感じるための方法を実践しているのだと思います。自分の体は自分でコントロールして、誰にも侵略されたくないということをエキセントリックな形で表現するとああなるのだと思います」
 
ただし、それが進化を人工的に加速させる手段だとしたら、監督は賛同できるかどうか確信がもてないと言う。少女は、人間はみんな“囚われ人”だと言うが、そのセリフについて監督はこう説明する。
「私たちは出口のないグローバリズムのなか、いかにしても逃げようがありません。また、人間のパーソナル・ゲノムは、今の技術水準では変更することは出来ないので人生の身体的な側面の大半は決まっています。60歳以上でガンになる確率が30%というデータを持つパーソナル・ゲノムはその運命を変えられません。それはあらかじめプログラムされているのです」このことは本作のタイトルを暗喩している。闇の中で光るように遺伝子操作をされたうさぎは“改良”とみなされる一方で、人工的に加速させた進化を好意的に受け止めるというコンセンサスに、社会はまだ達していない。
 
少女の行動を裁こうという意図は、監督にはない。それによって、この作品は受け入れられないと思う観客もいるかもしれない。2005年の事件の際、動物を殺していた少女は発達障害があったという説をメディアは展開した。本作では、時にはショッキングな方法で生き物が使われ、つねに“前進”だけを目指す文明に対して疑問を投げかける。
「いかに人間が合理的に動物と付き合うかということに限って言えば、とても急進的な進歩をとげていると思う。例えば、いかに合理的に鶏に卵を産ませるかというシステムは、プログラム化されているわけです。そのテクノロジーの進歩と、動物との関係をどう見るかというと、自分が人間である限り、その技術の恩恵を享受していることは否定できません。もう何千年も前から人間は自然に関与して、変えてきてしまっているわけです」この進歩の善悪については、土屋監督は言及せず、こう述べる。
「ともかく人間は戻ることはできません」。
 
聞き手:フィリップ・ブレイザー
[11/12再掲](本記事は映画祭公式英語サイトに掲載された記事を翻訳したものです)

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