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2012.10.27
[イベントレポート]
「『地平線』に未来を表現したかった」 ー 10/20(土)WORLD CINEMA出品『ヒア・アンド・ゼア』:Q&A

10/20(土)WORLD CINEMA出品作品『ヒア・アンド・ゼア』の上映後、アントニオ・メンデス・エスパルサ監督によるQ&Aが行われました。
 

©2012 TIFF

 
まず、監督から簡単にご挨拶いただけますでしょうか。
 
アントニオ・メンデス・エスパルサ監督(以下、監督):今回は日本に来ることができまして、大変嬉しく思っております。この映画を作ったときにはどうなることかと思っていて、少なくとも、多くの方にご覧いただければと願っておりましたが、こうして国際映画祭でご覧いただくことができました。実は、小津監督、今村監督の作品を始め、私は日本の映画にとても感銘を受けてきました。なので、日本という地で皆様に作品をご覧いただけたことは大変嬉しいです。
 
とても自然でドキュメンタリーかな、と思わせるような部分があるのですが、監督は「これは決してドキュメンタリーではない」とおっしゃっています。どのように作られたのか、撮影の背景を教えてください。
 
監督:これは大変長いプロセスでした。ドキュメンタリーを作ろうかなと思った時期もあったのですが、あくまでもフィクションにこだわりたいと思いました。また、私自身が村に行ったのはペドロが帰国して1年後だったので、ペドロが故郷に戻ってくる場面はフィクションとして再現しなくてはいけないという物理的な理由もありました。
私が「フィクションという形をとることによって色々なツールを使って物語を伝えることができる」と考えていることも、フィクションにこだわった理由のひとつです。実際、映画で登場するペドロの2人の娘も、彼の本当の娘ではなく、女優が演じています。
 
ペドロさんとの出会いは映画を撮る前でしょうか?
 
監督:実はペドロさんは、以前作った短編映画に主演してもらっています。それも、たまたまキャスティングしているときにコンビニで出会ったのです。「映画に出てみませんか」と声をかけたところ、最初の答えは「NO」でした。しかし、どうにか説得して映画に出てもらい、親しくなるうちに彼の人生についての話を聞きました。その時、私も彼もN.Y.にいました。「しばらく経ったら故郷の村に戻ってバンドを始めたいんだ、そのために貯金をしている」という彼の話を聞いたとき、そこには映画になる何かがあるのではないかと思いました。実際に映画を作れると確信したのは、彼の村を訪れた時でした。
 
大学院で、メキシコに戻ってきた移民について研究しています。この映画は見なければいけないと思って参りました。質問は、「Aqui Y Alla」(Here and There)という言葉は移民の研究ではよく使われていますが、監督は映画の中でもう1つ「地平線」という言葉を加えています。この言葉を使った背景を教えてください。

監督:実はこの映画を作る前から、章立てにした方が作りやすいのではと思っていたのです。そこで実際に、3つのメインの章と短いエピローグの4つに分けました。タイトルも、かなり早い時期からクリアに自分の中では浮かんでいました。私は、「地平線」という言葉は未来を象徴するものだと思っています。今から未来に向けてどういった方向で、どこに向かっていくのか。少し詩的かもしれませんが、それを地平線という言葉で表しているつもりです。
 

©2012 TIFF

 
監督は5年の歳月をかけて住民とコミュニケーションをとりながら、映画を完成させたと聞きました。実際にはどのくらいの長さを撮影したのでしょうか。また、フィクションとドキュメンタリーの融合とは、「脚本は存在したけれどもリアルな部分も反映されたという意味」ということですが、素材を選ぶプロセスはどのようなものだったのでしょうか。
 
監督:実はずっと撮影していたわけではなく、脚本を書いて資金を集め、また脚本に戻ってキャスティングするという準備期間があったので、実際の撮影はわずか2か月でした。撮影で1番重要視したことは、俳優たちを信頼することでした。俳優たちに自由に演じてもらうこともとても重要だと考えていたので、脚本をどんどん変えていきました。それも俳優たちの演技を見ながら、相談しながら変えたのです。
例えば家族がテーブルで食事をしているシ-ン、父親が失業したと言うところなのですが、その前段階の彼らの会話は全部アドリブで、その場でやってもらいました。サンタクロースのジョークやギターを弾いているシーンもそうです。俳優たちが実際に自由に演じてくれたところが、この映画に豊かさ、奥深さを与えているのではないかと私自身感じています。
また、女性が自分の息子を亡くしたからと泣いているシーンがありましたが、実は彼女は実際に子供を亡くしてはいません。ですが、恋しがって会いたいと思っているわけです。私はあえて、泣いてもらうために息子さんの話を聞いたりしました。監督というのはこういう小細工のようなことも多少はしなくてはいけませんが、それは必要悪だと考えていますし、撮影時期というのは大変美しいプロセスだと思っております。何がいつ起こるかわからない、という未知に満ちたプロセスでした。
編集は大変時間がかかりました。当初編集した段階では8時間の大作になってしまいました。ぼくも大作は好きで、あらゆることを描いて8時間の映画を作りたいと思ったのですが、よく見ると良い作品とは呼べませんでした。だから、どんどん編集して変えました。当初、脚本の中では最後のシーンは教師が学校に行くシ-ンだったのですが、それも変えました。撮影は2か月でしたが、本来であれば、4、5か月ともっと撮影したかったのです。編集は、結果的には1年かかってしまいました。
 
出稼ぎではなく、楽しみのためにアメリカに行くという印象を受けたのですが、それはそういうような批評があるのか、それとも現実的にそういう感じなのでしょうか?
 
監督:私の考えでは、答えはノーだと思います。この映画の中にも「ブレークダンスをしたいからNYに行きたい」と言う若い少年が出てきますが、そういう若者でさえ、村で働いていては家や車を買いたいという願いが叶わないということが分かっているのですね。仕事がないわけではありませんが、仕事が少ないですし、貯蓄するだけの給料をもらえるわけではないということです。メキシコシティーに行って働いてもいいのですが、そこでは皿洗いやウェイターといった仕事しかありません。賃金も安いですから、貯蓄できない。アメリカに行けば、職種は同じかもしれないけれど、賃金がそれなりに高いですから、お金を貯めることができる。自分の故郷に戻れば、それなりに豊かな暮らしができるだけの貯蓄ができるわけです。そして実際、NYなどに行って、飲んだくれてしまったり、バーで遊んでしまったりする人もいないとは言えません。ですが、基本的には故郷に残した家族が食べていけるために何らかのかたちで働く、そういった志を持ってアメリカに行っています。

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