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2012.11.01
[イベントレポート]
「1人の小さな人間が、自分をとりまく世界に対抗するというストーリーに魅かれました」―10/25(木)アジアの風『ある学生』:Q&A

10/25(木)、アジアの風 中東パノラマ出品作品『ある学生』の上映後、ダルジャン・オミルバエフ監督を迎えてQ&Aが行われました。

©2012 TIFF

 
石坂健治プログラミング・ディレクター(石坂PD):ようこそ日本へいらっしゃいました。今回は中学生の娘さんとご一緒にいらっしゃったということですが。
 
ダルジャン・オミルバエフ監督(以下、監督):はい。娘が日本のアニメが大好きで、ぜひ日本に来たいというので連れてきました。
 
石坂PD:それでは一言、観客のみなさんにご挨拶をお願いいたします。
 
監督:このたびは東京国際映画祭にお招きいただきまして、ありがとうございました。こういった内容の映画は通常の映画館で上映されるのがなかなか難しいんですね。ですからお招きいただき、大変感謝しています。日本に来るのはこれで3度目になります。最初は95年、その時は『カルディオグラム』(第8回TIFFアジア秀作映画週間にて上映)を持ってきました。2回目はNHKとの共同制作で『ザ・ロード』(NHK アジア・フィルム・フェスティバル 2001年第4回共同制作作品)という映画を作り、来日しました。
 
石坂PD:今回これが「罪と罰」のアダプテーションということですが、監督は「罪と罰」という小説のどんなところに魅かれて映画化をしようと思い立ったのか教えてください。
 
監督:まずストーリーに1番魅かれました。1人の小さな人間が、自分をとりまく世界に対抗する。まるでダビデがゴリアテに対抗するようなストーリーになっています。小さなものが大きなものに対抗するというのは、ドストエフスキーの小説に共通する内容と言えます。2つ目は映画化に向いているシーンが多々見られるということです。3つ目は小説の内容です。ドストエフスキーによってこの小説が書かれたのは、ロシアに初めて資本主義が入ってきた時でした。資本主義が入ってきたことによって、ロシアの伝統的な社会が崩れ始めて、人々はお金を持っている人と持っていない人に分かれるようになりました。同じような状況が、カザフスタンが共和国のひとつであった旧ソ連諸国でも起こっています。当時と現在の社会状況が似ています。
 
石坂PD:オミルバエフさんはカザフスタンの映画大学の先生でもありますが、主役の彼は先生のところの学生さんだとお聞きしました。どうして彼を主役に抜擢したのか教えてください。
 
監督:言葉で説明するのは難しいのですが、あえて言うとビビっときたというか一目ぼれです。この「罪と罰」は何度も映画化されているのですが、だいたい主人公に選ばれるのは厳しい顔つきをした人を殺しそうなイメージの役者が多いんですね。ただ私はこの映画を撮る時に、もう少しソフトな内容、より実際の内容に合わせたいと思いました。小説の映画化ではなくて、内容を映画として撮ろうとしていたので、彼を選びました。私がヨーロッパ人ではなくてアジア人であるということも関連しているのかもしれません。
 
資本主義と伝統的なロシア社会という構図とともに、さらに支配者としてのロシアとカザフスタンという縦の構図もあるのでしょうか。
 
監督:映画ではまず形が一番大事で、この内容を美しい形で撮ろうとしました。通常、小説が映画化される時は、小説を読まなくても映画を見ればわかるように内容を忠実にたどるものなのですが、これは小説「罪と罰」の映画化ではありませんので、「罪と罰」の内容を使って映画としての形式で撮りました。
小説「罪と罰」でも私の映画でもそうですが、お金がないということが殺人の主な理由ではありません。お金がないというのは犯罪の口実ではあっても主な理由ではありません。殺人を犯したきっかけは精神的なものです。精神的な不平等を克服するのは経済的な不平等を克服するよりもずっと難しいと思います。実際に「罪と罰」で、主人公は老婆を殺してお金を盗りましたが、そのお金を使いませんでした。
この映画でのセリフの80%がロシア語です。旧ソ連の一部であり、都市部では大半の人がロシア語しかわかりません。そのためにロシア語にしています。現在のところ、ロシアとカザフスタンの関係は良好で特に大きな問題はありません。カザフスタンの人口の30~40%はロシア系の人たちです。

©2012 TIFF

 
「罪と罰」は何度も映画化されていて、有名なところではカウリスマキの処女作などがありますが、そうした監督の作品を参考にされたのでしょうか?また、夢のシーンをどうして取り入れたのでしょうか。
 
監督:まず私の映画では夢のシーンを多用します。夢のシーンを見せることによって人間の内面を表現できると思うからです。無意識下にある感情とでもいいますか。現代の芸術はもっと人間の内面に目を向けるべきだと思います。ですから、ロシアのアンドレイ・タルコフスキー監督が好きなのですが、タルコフスキーの作品にも夢のシーンが多用されています。
「罪と罰」の映画化作品は3本見ました。1本目は70年頃のレフ・クリジャーノフ監督の作品。2本目がアキ・カウリスマキ監督の作品です。正直申し上げて、私はどちらの作品もいいと思いませんでした。小説の内容をそのまま映画にしたものだったからです。3本目はロベール・ブレッソンが撮った『スリ』です。その映画では殺人ではなくスリに替わっています。私はそのブレッソンの作品は大変好きな作品です。なぜなら、映画の言語を使って小説の題材を扱った作品だからです。
 
ラストシーンを見て、タルコフスキーの映画を思い出したのですが、何かそのあたりのお話を聞かせてください。
 
監督:ラストシーンは私の案ではなくてカメラマンのアイデアでした。タルコフスキーもブレッソンは映画史上最高の監督だと言っていますが、私もその意見に賛同します。タルコフスキーは主観的な作品を撮っていたと言われますが、私はそうは思いません。客観的に撮るのに長けていた監督だと思っています。他の映画史上偉大だと言われる監督でも、どんなに少なくとも10~20%は文学作品をモチーフにしていたり音楽を使っていたりしていたと思いますが、ブレッソンはそうしたものを100%取り除いて映画を撮っていました。ですからブレッソンは世界の映画史上で一番優れた監督だと思っています。
 
映画の中で富裕層の悪しき様がいろいろと描かれているのですが、ラスコーリニコフの矛先がどうしてそういう富裕層ではなくて、小さなお店の店主に変わったのでしょうか?私には店主はどちらかというとプロレタリアートに属するのではないかと思えたのですが。
 
監督:ドストエフスキーの原作でも、主人公の学生ラスコーリニコフが殺したのは、大金持ちではなくて、金持ちのおばあさんでした。ドストエフスキーがのちに何度も書いていましたが、これは社会的な問題ではなくて、精神的な不平等、つまり主人公は実際に自分が人を殺すということができるかということを確かめたくて殺人を犯しました。この映画でも、経済の問題が主なテーマではありません。今はお金がなくてもとりあえず住む家があって、飢えで死ぬということはなかなかないと思います。そしてこのドストエフスキーの小説でも、この映画でも、主なテーマは罪の意識ですね、その罪を犯したことを耐え抜くということ、そのまま知らない顔でいるというのは大変苦しいことです。ドストエフスキーは11月生まれの蠍座なんですけれど、とくに蠍座の人間というのは、罪の問題についてかなり深刻に考えると言われています。ドストエフスキーは罪の意識というテーマについて小説を書かずにはいられなかったと言われています。皆さま、大変興味深い質問をいただき、ありがとうございました。
 
ある学生

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