アメリカ合衆国大使館と公益財団法人ユニジャパン、第25回東京国際映画祭は、10/22(水)六本木ヒルズ 六本木アカデミーヒルズ49 タワーホールにて、「日米フィルムアカデミー」と題した上映イベントを開催しましたので、下記の通りご報告いたします。第一部では、ハリウッドの第一線で活躍する映画監督ジム・ウィテカー氏をお招きし、映画大国アメリカでの映画製作事情についてお話いただきました。第二部では、ウィテカー氏の監督作品、9.11アメリカ同時多発テロの遺族らを追ったドキュメンタリー『リバース』が上映され、そのQ&Aが行われました。
■ 日時・場所
10/22(水) 18:30- @六本木アカデミーヒルズ49 タワーホール
■ 登壇者
ジム・ウィテカー (監督/プロデューサー)
【第1部:アメリカでの映画製作事情について】
~ジム・ウィテカー氏が映画づくりに関わるようになったきっかけ~
「ある日新聞を読んでいると、ボルチモア(米メリーランド州)である映画が製作されるという記事が載っていました。映画のタイトルは『ヘアスプレー』、監督はジョン・ウォーターズでした。実は、彼は私の従弟にあたります。とは言っても、疎遠になっていましたので、僕のことはあまりよく覚えていないかもしれないけれど、とにかく映画制作の現場に行ってみたいので訪ねて行ってもいいか、と手紙を書きました。すぐにこの担当者に連絡して手続きをするように、と返事をくれました。さっそくボルチモアに出向いて、担当者に会い、撮影現場ではどのようなことが行われているのか見せてほしいと頼みました。すると、クラフトサービスの担当になればいいと手配してくれました。その時点では、クラフトサービスが何であるかは知る由もなかったのですが、ふたを開けて見ると、撮影現場のキャストやスタッフに食べ物や飲み物を提供する担当のことでした。それでも、僕にとってはこの上なく幸せな日々でした。現場での初日のことはよく覚えています。すぐに映画作りという仕事に魅了され、これこそが僕が生涯やるべきことだと実感したからです。」
~映画のメッカ ハリウッドへ~
「イーストコーストにいると、ハリウッドの文化や雰囲気、その何もかもがはるか遠くに感じるものです。ですから、ハリウッドへ行くことは、映画作りにほれ込んでいた僕にとってでさえ、不条理なことのように思えました。ドキュメンタリーの制作会社に勤務している時に作った飲酒運転防止のテレビ用公共広告をつくったことをきっかけに、自分の作品に自信が持てるようになり、ハリウッドへ行こうと決意しました。」
~南カリフォルニア大学 映画学部ピーター・スターク・プロデューシング・プログラム~
「まずは、南カリフォルニア大学(USC)映画学部に出願しました。そこで私が参加したのは、ピーター・スターク・プロデューシング・プログラムです。このプログラムは、映画業界を専門に扱うビジネススクールのようなもので、25人編成で映画作りに関わる法律から、構想立案、制作、脚本まで、様々な側面に触れ学ぶことができます。これは、単に撮影現場を経験しただけであり、映画のビジネス面については全く知らなかった僕にとっては、非常に強烈な体験となりました。また、このプログラムから得た大きな収穫は、24人の同志です。そのほとんどがその後ハリウッドへ行くことになりました。そして、現在においても映画作りに欠かせない大切な同僚です。」
~イマジン・エンターテインメントでのインターンシップ~
「USCで映画業界の様々な側面について学んだことで、僕の映画に対する興味がさらにかき立てられました。ピーター・スターク・プロデューシング・プログラムでは、プログラムの参加者全員に映画業界でのインターンシップの機会を与えてくれます。これは、ジョン・ウォーターズ以外、映画業界のコネがまったくなかった僕にとって、非常に重要な機会となりました。まずは、ロン・ハワードとブライアン・グレイザーが設立した映画・テレビ制作会社であるイマジン・エンターテインメント(Imagine Entertainment)でインターンシップを開始しました。そこでは改めて学び体験することが非常に多くありました。実践からしか学べないことがあまりにも多くあったということです。」
~ブライアン・グレイザーとの出会い~
「イマジン社では、極めて熱心に働きました。このことは強調しておきますし、今でも重要視している点です。一生懸命働くこと、これは映画業界において、とりわけその初期段階においては、非常に重要な要素だからです。すべてとんとん拍子だったわけではなく、アシスタントを務める期間が長く弱気になったしまったこともありました。これ以上前へ進めないのではないかとね。しかし、運命の巡りあわせでしょうか、ある日ロン・ハワードの製作パートナーであったブライアン・グレイザーが、僕の真面目な働きぶりに気付いてくれました。最低な状況に置かれていることの強みは、それ以上失うものがないということであり、僕は彼に対して遠慮なく率直に意見を述べ、長い間会話を交わしました。そして、僕が以前作った公共広告のコピーを持って来るようにと言われました。その翌日、ロン・ハワードが僕のところへやって来て、「気に入ったよ!」と言ってくれたのです。その後、ブライアンからインターンとしてではなく、仕事としてクリエイティブ・エグセクティブのアシスタントとしてのポストを与えられました。その職を就いて1年後、エグゼクティブに昇進させてくれました。今思えば、それはちょうどイマジン社が成長している時期であり、僕も一緒に成長させてもらえたわけですね。」
~『8 Mile (エイトマイル)』~
「当初製作にあたった映画の中で、僕にとって最も重要なのは『8 Mile』です。ある日ブライアンが僕に、デビューしたばかりのエミネムというラッパーを撮りたいと言ってきたのです。エミネムの音楽を聴いて、それがあまりにも素晴らしかったので、すぐにどんな映画にしようといった話で盛り上がりました。僕が描いた構成は、新しい世代に書き換えた『Saturday Night Fever』のようなものでした。『8 Mile』が何故重要だったかというと、そのひとつの理由は、僕がライターを初めて選ぶことができた作品だったからです。スコット・シルバーというライターがいて、彼の作品はすべて読んでいて気に入っていたので、彼を起用したいと考えました。問題は、彼はハリウッド用語でいうところの「獄中」にいたことです。実際に刑務所に入っているということではなく、以前の失敗から抜け出せず、また、誰も彼を使おうとしない状態から抜け出せずにいたわけです。でも、彼が過去に書いた脚本を本当に気に入っていたので、彼が起用できるよう懸命に戦いました。そして、職もなくお金に困っていたスコットの起用が決まりました。すぐに最初の37枚を仕上げてくれ、僕たちは直ちに撮影に入りました。スコットにギャラを払ってあげたいということもありましたが、それよりもその37ページがあまりにも素晴らしかったからです。そういった感じで撮影が始まり、作品ができあがりました。」
~そして今~
「ある日ディズニーのプレジデントであるショーン・ベイリーから電話がありました。ディズニー傘下の会社を作らないかというお誘いでした。ここ数年、ディズニーと組んで本当に良かったと実感しています。つい最近、ジェニファー・ガーナーとジョエル・エドガートン主演の『ザ・オッド・ライフ・オブ・ティモシー・グリーン(The Odd Life of Timothy Green)』が完成したばかりです。そして今の僕があります。フィルムビジネスに対して信念を持ち、また、フィルムビジネスを続けていく能力があると自負しています。これは真剣に仕事に取り組む姿勢によるところが大きく、また、仕事が好きであることが重要です。好きでやっていることであれば、仕方なくやっている仕事ではなくなり、仕事をしているのだということを忘れて作品に取り組むことができるからです。皆に伝えたいストーリーを見つけたら、自分のすべてをささげます。つまり、寝ても覚めてもその作品のことばかり思い考えます。作品が自分のすべて、生活そのものになるということなのです。」
【第2部:『リバース』上映後のQ&A】
Q:この映画のために何人の人たちを取材したのですか?
ジム・ウィテカー氏(以下:JW): 当初10名の方々にご協力いただくということで取材を開始しました。取材を始めて間もなく、一人が脱落しました。テーマが辛すぎるというのが理由です。その他の方々は残ってくれることになり、長い期間をかけて一人一人取材しました。編集に入る際に、取材に応じてくれた9人のそれぞれ異なるストーリーをひとつ残らず映画に詰め込みたいと考えていました。そして、これらのストーリーをつなぎ合わせることを試みましたが、すぐにすべてのストーリーを網羅するのは難しいことに気づきました。当初は、ストーリーの本筋には影響を及ぼさないようなほんのちょっとしたことまで、漏らさずに盛り込みたいと考えていましたが、映画作品として仕上げるためにはある程度削ぎ落とす必要があり、厳しい決断をしなければなりませんでした。その後、2013年に開館予定の9.11記念博物館で9つのストーリーを別々に上映する企画が決まり、気持ちに区切りを付けることが出来ました。それぞれのストーリーを20分程度にまとめ、9日間かけて毎日ひとつのストーリーを紹介するのです。
Q:この映画を制作した目的は?
JW: 私の母は、9.11の6か月前に他界しました。グラウンド・ゼロには、その悲しみも抱えながら訪れることになりました。瓦礫を見ながら、今後どのようにしたら希望を生むことができるのだろうと考えました。二つのことを思いました。ひとつは、人生は短いということ、もうひとつは映画のアイディアがあるならすぐに実行すべきだ、ということです。また、人間の「悲しみ」という感情に対する好奇心もありました。母が亡くなった時、私の4人の兄弟は、それぞれ違った反応をしました。悲しみとは何であり、それは人間にどのように作用するのだろうか。結果的に、私はインタビュー対象と毎年1回会い、今どうしているか、どんな気持ちかといった質問をするようになりました。どこに向かうかはわかりませんでしたが、彼らがより良い状況に進めるのだという人間主義的な信念を持っていました。「悲しみ」について私がたどりついた結論はとても主観的なものでしたが、それは誰にとっても同様だと思います。
Q:取材を始められてからどの時点で、これで十分取材ができたと決断しましたか?
JW: 取材を始めた当初、7年はかかると想定していましたが、ストーリーを積み上げていくプロセスで思った以上に時間がかかり、さらに2年かかるかもしれないと思った時期もありました。これで取材は十分だとしたのは、「映画自体がエンディングを教えてくれる」と思えた時でした。実際には4年から5年経ったころですが、取材していた人たちの生活に変化がありました。例えば、タニアは結婚しました。ニックは学校を卒業し、母親のアイデンティティから独立し始めていました。ブライアンは、PTSD(外傷後ストレス)から回復の兆しが見え始めていました。そこで、クルーにここでそろそろ終わりにしよう、そしてできる限り自然なかたちで終えようと伝えました。この判断もプロセスも慎重に行わなければならないものだと理解していました。
Q:撮影をするにあたっての課題は?
JW: この映画の製作は、決して楽なものではありませんでした。この映画は、現場の状態とその発展を物理的に記録する歴史的記録物として製作されるものあったので、まずは、非営利組織を立ち上げることから始まりました。フィルムはすべて米国議会図書館に永久保存されます。そのために、すべてビデオではなく35ミリで撮りました。費用のかかるアプローチでしたが、歴史的記録物をつくりという意志のもと前進しました。資金の調達も大変でした。最初の頃は援助してくれる企業も数社ありました。また、コダックにはフィルムを、フジフィルムにはテープを、ポスプロの制作会社には編集をと、あちこちに頼んで回りました。そして資金提供者が資金を提供し続けてくださるように、満足のいく結果を残す必要がありました。クレジットロールでお分かりになったと思いますが、この映画には非常に多くの方々の支援をいただいております。結局のところ、映画作りというのは人々の想いと信念に支えられた営みなのです。
※このニュースはトークイベント・Q&Aの模様を追加し、再掲載したものです。